先週、パン作りに励んでいる教会員の方から、手作りのパンをいただきました。 のぞみ教会ではバザーでパンを焼くこともあり、私たちにとってパンはとても身近な存在です。聖書の中でもパンは神様の恵みの象徴ですが、先日の礼拝で開いた箇所(マルコによる福音書8章)では、少し意外な角度から「パン種」についての警告が語られていました。
忍び寄る「パン種」の正体
パン種(酵母)は、ほんのわずかな量で生地全体を大きく膨らませます。イエス様はこの性質を借りて、「ファリサイ派のパン種」と「ヘロデのパン種」に気をつけなさい、と弟子たちを諭されました。
「ファリサイ派のパン種」とは、自分の正しさを誇り、他人を裁く「傲慢」のこと。 「ヘロデのパン種」とは、自分の利益や立場を守るために世俗の波に身を任せる「保身」のこと。 どちらも共通しているのは、神様ではなく「自分」が中心になっているという点です。
このパン種は、現代の私たちの日常にも溢れています。 「成果を出せる人」が称賛され、頑張りたくても頑張れない人が見失われていく社会の価値観。あるいは、かつて戦時下の日本の教会が、社会の空気に同調して福音の自由を損なってしまった歴史。 小さな妥協というパン種は、知らず知らずのうちに、私たちの心やコミュニティ全体を支配してしまう危うさを持っているのです。
「パンがない」という思い煩い
イエス様がこの深い警告を語られたとき、弟子たちは何をしていたでしょうか。彼らはあろうことか、「あ、パンを持ってくるのを忘れた!」と、手元にあるパンが「たった一つしかない」ことについて議論を始めていました。
イエス様の真意よりも、目先の「不足」に心を奪われていたのです。 そんな彼らに、主は語りかけます。 「五千人の給食を忘れたのか。十二の籠にいっぱいになったではないか。……まだ悟らないのか」と。
目の前にある「一つのパン」から
私たちも、弟子たちと同じではないでしょうか。 過去にいただいた数え切れない恵みを忘れ、今、手元に「ない」こと、「足りない」ことにばかり目を向けて、不安になり、議論を始めてしまいます。
ここで注目したいのは、彼らの乗る舟には「一つのパン」はあった、という事実です。 五千人の給食のときもそうでした。そこにあったのは、弟子たちの目から見れば「何の役に立つのか」と言いたくなるような、微々たるパンと魚でした。
イエス様は何もないところから魔法のようにパンを出したのではなく、その場にあった「小さなもの」を祝福し、すべての人を満たされたのです。主が求めておられるのは、不足を嘆くことではありません。 今、自分に与えられている「一つのパン」――たとえそれが微々たる力であっても、小さな献げものであっても――を、そのまま主の前に差し出す信仰です。
主の祝福があれば、その「一つ」は、想像もしない豊かな実りをもたらします。 「まだ悟らないのか」という主の問いかけは、決して突き放す言葉ではありません。「わたしが共にいるではないか。安心して、今あるものに目を留めなさい」という、力強い励ましです。
新しい一週間が始まります。 足りないものを数えて溜息をつくのをやめ、主が用いてくださる「一つのパン」を感謝して携え、それぞれの日常へと漕ぎ出していきましょう。
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