裏切りという言葉には、やっぱり痛みが伴います。
しかもそれが、信頼していた人からだったらなおさらです。

イエスが逮捕されたあの夜、弟子のユダは、まさにその裏切りを実行しました。
「先生、こんばんは」と言って、イエスに接吻する。
それが逮捕の合図でした。

当時、接吻は親しみや敬意のしるし。
それを、裏切りのサインとして使ったユダの姿には、やりきれないものを感じます。
礼儀と本心がかけ離れてしまうとき、人はこんなにも悲しい存在になるのかもしれません。


でも、イエスはそんなユダに向かって「友よ」と呼びかけました。

皮肉ではなく、あきらめでもなく、
最後の最後までユダを招こうとする、イエスの愛の言葉だったと思います。


その夜、イエスはひとり、あらゆる裏切りと弱さを引き受けられました。
弟子たちは逃げていき、
ユダは裏切り、
ご自身も「この杯を避けられるなら」と祈ったほど。

それでも、「御心が行われますように」と祈りきったイエスは、
すべてを抱えて、捕えられる道を選ばれたのです。


「あなたがたは私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」
これは、ヨハネによる福音書の有名な言葉ですが、
裏切ったユダにも、逃げた弟子たちにも、
そして迷いながら生きる私たちにも、
そのまま届いている言葉だと思います。

「友よ」と呼びかけるイエスの声は、
今もなお、変わらず響いているのです。

※これは2025年4月6日の説教を元にして書いたものです。

説教要約はこちら

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