エジプトを脱出した神の民は、長い荒野の旅を続けてきました。何度も神への信頼を失い、不平を口にし、恐れに飲み込まれました。それでも神は彼らを見捨てることなく、忍耐深く導き続けられたのです。

申命記は、その荒野の旅の終わりに語られたモーセの言葉をまとめた書です。約束の地を目前にして、モーセは40年の旅を振り返りながら、次の世代に律法と契約を語り直します。それは、まるで人生の最後に大切な家族へ語り残す「遺言」のような、心を込めた説教集です。

7章では、なぜイスラエルが神に選ばれたのか、その理由が語られています。主はこう言われました。

「主があなたがたを心引かれて選ばれたのは、
あなたがたがどの民よりも少なかったからである。」(申命記7:7)

「少ない」とは、単に人口が少ないという意味ではありません。社会的にも経済的にも、軍事的にも、イスラエルは弱く、取るに足らない存在でした。新共同訳では「貧弱」と訳されています。つまり、神は強く優れた者を選ばれたのではなく、最も弱い者を選ばれたのです。

なぜでしょうか。理由はただひとつ。「主があなたがたを心引かれたから」です。
この「心引かれる」という言葉は、創世記では「恋い慕う」という意味で使われることがあります。神は、まるで恋人に心を奪われるように、イスラエルに惹かれた。極めて人間的で、情熱的な愛の表現です。

けれども、イスラエルは美しくも、強くもありませんでした。エジプトで虐げられ、奴隷として苦しむ人々。その無力さの中にこそ、神は心を寄せられたのです。そして彼らを「宝の民」と呼び、選び取られました。

私たちの社会では、「選ばれるため」には強さや能力が求められます。スポーツでも勉強でも、優れた人が評価されるのが当たり前です。そこには競争があり、やがては国と国との争いにまで広がっていくことさえあります。

けれども、神の選びは違います。
神は、誰も顧みない弱い者を選ばれます。取るに足らない者を愛し、用いられます。これは、神の愛のかたちです。ある意味、「偏った愛」とさえ呼べるかもしれません。神は貧しい者、虐げられた者に偏って愛を注がれるのです。

しかし、神の愛は「弱さをそのまま放置する愛」ではありません。神は愛する者を解放し、自由へと導かれます。

8節にはこう書かれています。

「主はあなたがたを愛し、先祖に誓われたゆえに、奴隷の地から贖い出された。」

「贖う」とは、代価を払って自由にすることです。神は、ご自分の愛と先祖への誓いのゆえに、奴隷であったイスラエルを贖い出されました。その愛は揺るがない「真実」であり、今も変わらず、弱き者に注がれています。

そして、この神の愛を最も鮮やかに示したのが、主イエス・キリストの生涯です。イエスは罪人を招き、的を外して生きる者を贖い、自由にされました。その招きは、今も変わらず私たちにも響いています。

8月初め、カンボジアを訪れた時、トゥールスレン収容所を訪ねました。
1970年代、ポル・ポト政権下で多くの人々が拷問を受け、命を奪われた場所です。壁に残る傷跡や無数の写真を前にすると、「もし自分があの時代、この場所に生まれていたら」と思わずにはいられませんでした。胸が締めつけられるようでした。

一緒に訪れていた高校生が「ひどい」とつぶやきました。すると、フィリピンから来た青年が言いました。「でも、日本も戦争中に同じことをしたよね」。その言葉に、しばらく言葉を失いました。

戦争や抑圧は過去の出来事ではありません。今も世界のどこかで起きていて、私たちの心の中にも同じ暴力の種が潜んでいるのです。

それでも、神はそんな私たちを「宝の民」と呼ばれます。
弱さや罪を抱えたままの私たちを、なお選び、愛し続けてくださるのです。

けれども、この「選び」はゴールではありません。
神の愛をただ自分のために握りしめるのではなく、その愛を世界に映し出す使命が与えられています。

申命記は、南ユダが偶像礼拝に傾き、神との契約を忘れた時代に編纂されたと言われています。「真の豊かさは神から与えられる」と語り、「戒めを守ることこそ命である」と繰り返し呼びかけています。

この「今日守れ」という呼びかけは、モーセの時代だけでなく、ヨシア王の時代にも、そして現代を生きる私たちにも向けられているのです。

ヨハネ15章でイエスはこう言われました。

「あなたがたが私を選んだのではない。
私があなたがたを選んだのだ。」

そして「互いに愛し合う」使命を託されました。

私たちは、日本社会ではごく少数派の小さな群れです。
けれども、マジョリティになることが目的ではありません。
小さな群れだからこそ、神の力にすがり、神の愛を証しする歩みが大切なのだと思います。

今日は「平和主日」です。
世界のあちこちで戦争や抑圧が続く中で、私たちは今、何に心を引かれているでしょうか。

神の「偏った愛」に生かされる者として、弱き者に向けられた神のまなざしを、この世界に映し出す歩みを続けたいのです。

貧弱だからこそ、神に選ばれた。
弱いからこそ、神の力が現れる。
そのことを胸に刻みながら、今日を歩んでいきたいと思います。

※この文章は2025年8月10日に国立のぞみ教会の主日礼拝で語られた説教をもとに書かれています。

説教の要約⬇️

説教の動画⬇️

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