「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」

マタイによる福音書の中で、主イエスが十字架の上でただ一度、声にされた言葉です。
神の子と呼ばれるお方が、神に向かって発したこの叫びは、
福音書の中でも最も重く、深く、胸に突き刺さる一言ではないかと思います。

嘲る声が十字架の周囲を取り囲んでいました。
「神の子なら降りてこい」「自分を救えないのか」
あらゆる声がぶつけられる中で、主イエスはずっと沈黙しておられました。
でも、その沈黙を破って、叫ばれたのです。
「なぜ、私を見捨てたのか」と。

私たちはよく、この言葉を詩編22編の引用だと解釈します。
たしかに、詩編の冒頭にあるその言葉は、やがて神への賛美へと展開していきます。
だから、イエスもこの詩を口ずさみ、最後まで神を信頼していたのだと。

でも、本当にそうでしょうか?
詩編を口ずさんでいたというには、あまりにもこの叫びは強すぎる。
原文で見れば「絶叫する」ほどの言葉です。
それは詩的な祈りではなく、魂の底からほとばしるような、
神の沈黙に耐えかねた、絶望の声だったように思えてなりません。

私たちもまた、「なぜ?」と叫びたくなるときがあります。
なぜ祈っても変わらないのか。
なぜ、苦しみに意味があるのか。
なぜ、あの人が倒れなければならなかったのか。

信仰を持っていても、そう問いたくなるときはあるのです。

でも、そんな叫びのただ中に、イエスご自身が降ってこられた。
それが、十字架の出来事の深さなのではないでしょうか。

神が遠くにおられるのではなく、
その叫びを「ご自身の叫び」として引き受けられたということ。
神にすら見捨てられたと思えるような闇の中にさえ、
イエスは共に立っておられたということ。

マタイは、主の死とともに神殿の垂れ幕が裂けたと記します。
それは「神と人との間に隔てがなくなった」ことの象徴です。
もう神は聖所の奥深くに閉じこもっておられない。
すべての叫びと痛みに、耳を傾けてくださっている。

だからこそ、私たちも「なぜ?」と問うことを恐れなくてよいのです。
その問いは、信仰の弱さではなく、
むしろ最も深い祈りの形なのかもしれません。

あの日、真昼に地が暗くなったように、
私たちの心にも、光が見えなくなるときがあります。
でも、その闇の中にこそ、主の一言は響いているのです。

「わが神、わが神、なぜ」

それは絶望の叫びであると同時に、
私たちの叫びが届く場所がある、という希望の声でもあるのです。


この記事は2025年4月13日の礼拝で語られたものに基づいて書かれています。
説教の要約はこちら⬇️

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