今日、私たちはマタイ福音書版のイースターの物語に耳を傾けました。ここでも、マグダラのマリアに託されたミッションがありました。

「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」

マリアはその言葉を弟子たちに伝えました。そして11人の弟子たちはガリラヤへ向かい、イエスが指示しておかれた山に登ったのです。

イエスを見て、彼らはひれ伏しました。礼拝したのです。 でも、同時に―― 「しかし、疑う者もいた」と、聖書は記します。

よく読むと、ギリシア語の文法からして、「一部」ではなく「全員」が疑ったと考えられるそうです。 ひれ伏して礼拝しながら、疑う――。 一見、矛盾しているようでいて、でもこれは、私たち自身の姿ではないでしょうか。

私たちも、主の日ごとに礼拝を捧げています。 復活された主を讃えながらも、心のどこかに「本当に?」「これでいいのだろうか?」と揺れる思いを抱えている。 信じながらも、疑っている。 それが、人間というものだと、私は思います。

そんな弟子たちに、主イエスはどうされたでしょうか。 18節に、こうあります。

「イエスは、近寄ってきて言われた」

疑う弟子たちを知りながら、イエスは彼らに「近寄ってきた」のです。

ぐいっと、弟子たちの不安と迷いのただ中に、近づいてくださった。 逃げた者、裏切った者、疑っている者、そのすべてを赦し、愛し、迎え入れるために。

これこそが、福音ではないでしょうか。

私たちが、十分に信じる者になったから救われるのではありません。 むしろ、信じきれない弱さを抱えたままの私たちに、主のほうから近寄ってくださる。 それが、イエスのなさり方です。

しかも、主イエスはそこで、こんな約束をされました。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

「いつも」というのは、直訳すると「すべての日々」という意味だそうです。

喜びに満ちた日も、悲しみに打ちひしがれる日も、 怒りに震える日も、無力感に沈む日も、 信仰が揺らぐ日も、希望が見えない日も――。

すべての日々において、主は共にいてくださる。 私たちの気分や感じ方に関わらず、変わることなく、共におられる。

それが、インマヌエル―― 「神、我らと共におられる」という、福音なのです。

だから、私たちは「だいじょうぶ!」なのです。

疑いを抱えていても、 信仰が弱くても、 明日のことが不安でも、 世界が揺らいでいても、

だいじょうぶ。

私たちには、この主の約束があるからです。

そして、私たちはこの喜びを、次の人へと伝える使命を託されています。 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令は、誰かを無理に改宗させるということではありません。 あらゆる違いを超えて、主の愛がすべての人に染みわたっていくことを願い、仕えていく。 そのために、私たちはこの地上に派遣されているのです。

東小金井には、高い山はありません。 けれども、ここに集う一人ひとりが、「神の言葉を聞く高み」となって、 復活の主に出会い、礼拝し、そして派遣されていく。

この教会、この礼拝こそが、私たちにとっての「ガリラヤの山」なのです。

今日も主が共にいてくださいます。 だから、大丈夫。

この約束を胸に、また新しい一歩を踏み出していきましょう。


この記事は2025年4月27日に東小金井教会の礼拝で語ったものに基づいて書かれています。

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