あれこれ手をつけては中途半端にしてしまう──そんな日々に、心がザワザワすることはありませんか?
私もそうです。やらなければならないこと、やりたいこと、気になることがいつも山のようにあります。そんな中、今朝の聖書の言葉は、ハッとするものでした。
「なすべきことは、ただ一つ。」
パウロが、晩年、牢獄の中からフィリピの教会に宛てて書いた手紙の中で語った言葉です。
「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13-14)
パウロは、信仰の歩みを「走ること」にたとえています。
マラソン好きな私としては、もうそれだけで胸が熱くなります。
でもここで一つ、気になることがあります。
パウロは別のところで、「律法を守ることで神から認められようとする生き方」に対して、厳しい言葉を使っています。「あの犬ども」とまで言い切って。
なのにここでは、「賞を得るために走れ」と語る。え?努力して報酬を得るという話なの?と、ちょっと混乱します。
でも、違うのです。パウロが言う「賞」とは、自分の力で勝ち取る報酬ではありません。
牧師室には「ぐんまマラソン」のフィニッシャータオルが掛けられています。それは優勝の証ではなく、「走りきった者」に与えられる完走の証。まさに、信仰の歩みもまた、完走を目指す旅なのです。神の愛に捕らえられた者が、その愛に応えて走り抜いた人生の先に、神さまが与えてくださる「フィニッシャーメダル」──それが、パウロの語る「賞」なのです。
「完璧な走り」ではなく、「走り抜いた」という事実。
これを思い出すと、安心しませんか?
私たちの走りは、時にペースを崩し、転び、迷います。それでも、神はともにいて、伴走してくださる。その恵みによって、最後まで走り抜くことができるのです。
パウロは、自分がまだ「ゴールに達した」とは思っていない、とも言っています。
むしろ「まだ途中」。「追い求めている」と語ります。これがとてもリアルです。
信仰の歩みって、到達するものではなく、続けていくもの。まさに、日々のレース。目の前の一歩を大切にしながら、主に向かって走っていく。
その姿を支えるのが、「信仰の導き手であり、完成者であるイエス・キリスト」(ヘブライ12:2)です。
私たちは、時に立ち止まり、うずくまり、心が折れそうになります。
でも、だからこそイエスさまを見つめる。信仰とは、見えないゴールに向かって、主を信じて走ること。時に弱さを抱えながらも、立ち上がって、もう一度走り出す。その繰り返しです。
フィリピ書に出てくるあの有名なフレーズ──
「キリストの心を心とせよ」(文語訳:フィリピ2:5)
十字架の道を歩まれたイエスさま。低くなられ、従われたその姿に、神の高さが宿っている。キリストの心を、私の心として生きていく。そこにこそ、「天の国籍を持つ者」としての生き方があります。
現代社会は、「地上のこと」にばかり心を奪われがちです。暴力が吹き荒れ、憎しみが渦巻く世界。
でも、私たちキリスト者は、「天に国籍を持つ者」(フィリピ3:20)として生きる者です。
これは、現実逃避ではありません。むしろ、この地上に根を張りながらも、別の価値観に立って生きるということ。「旅する神の民」として、神の国の市民として、今日もイエスさまを見つめて走り抜く。
その中に、信仰者の生き方があります。
※この文章は2025年6月22日国立のぞみ教会の主日礼拝で語られたものを元に書かれています。
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