聖書を読んでいても、
心が動かなくなることがある。
「これは知っている言葉だ」と思って、素通りしてしまう日もある。
自分の祈りに熱がこもらない時期も、正直ある。

聖書を読んでも
いくらよんでも感激がわかなくなったなら
聖書を生きてみなさい
ほんのちょっとでもいいから

(八木重吉)

この詩に出会ったとき、何か言い当てられたような気がした。
そんなとき、つい「もっと心を込めて読まなきゃ」とか、
「解釈が浅いのでは」と考えてしまうけれど、
八木のこの詩は、違う方向を示してくれる。

“聖書を生きてみなさい
ほんのちょっとでもいいから”

これは、聖書の言葉を“体で引き受けてみる”ということだと思う。


たとえば、聖書に「仕えなさい」とあるなら、
ほんの少しでも、誰かの手助けをしてみる。
「祈りなさい」とあるなら、
時間を区切って、静かに目を閉じてみる。

それは大げさなことじゃなくていい。
でも、実際に“動く”ことでしか見えてこない世界がある。


信仰は、頭で理解するだけでは足りない。

手を差し出してみることで、
膝をついて祈ってみることで、
聖書の言葉が、もう一度体に戻ってくる。


私はよく「肉体派牧師」と言われる。
マラソンを走り、筋トレをしたりしているからだけど、
私は信仰においても、“肉体”は大切だと思っている。

信仰は精神的な営みだけではない。
言葉を生きるためには、体が動くことが必要なのだ。


聖書を生きるというのは、
日々の小さな場面で、その言葉を「試してみる」ことなのかもしれない。
何かが変わる保証はなくても、
その姿勢そのものが、すでに祈りなのだと思う。


「感激がわかなくなったなら」
それは信仰が終わったサインじゃない。
むしろ、動き出すきっかけかもしれない。

ほんのちょっとでもいい。
今日、どこか一箇所でも、聖書を“体で受け止めて”みませんか?

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