「自由にされたはずなのに」
先日、近所の方から「この前、牧師さんがラーメン食べているところ見ましたよ! 牧師さんもラーメン食べるんですね?」と言われました。
他にも「お酒は飲んでいいんですか?」「肉は食べるんですか?」と聞かれることがあります。
どうも、牧師は何かを“してはいけない人”として見られているらしいのです。
宗教というと「これはダメ」「あれはしなきゃ」とルールに縛られるイメージが根強いのでしょう。
信仰=不自由、という先入観。確かにそれは、この国の宗教観のひとつかもしれません。
けれど、聖書を読むとき、特にガラテヤ書のパウロの言葉を聞くと、それとは真逆の世界が開かれていきます。
「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださった」(ガラテヤ5:1)
信仰とは、不自由になることではなく、本当の意味で“自由にされること”です。
「なぜ戻るのか?」
けれど実際の信仰生活では、私たちは案外、自由であることを怖れてしまうものです。
このガラテヤ書でパウロが向き合っている問題もそうでした。
イエス・キリストの福音を受け取った人たちが、もう一度「割礼」や「律法」によって神に認められようとし始めていたのです。
つまり、「自分でなんとかしないと」と再び古い仕組みに戻っていこうとしていた。
パウロは厳しく言います。
「割礼を受けるなら、キリストはあなたにとって何の役にも立たない」(5:2)
これは、律法を守るかどうかではなく、「神の恵みに生きるか、それとも自力でなんとかしようとするか」という選択の問題です。
信仰の根幹が問われているのです。
「自由」とは、勝手気ままのこと?
もちろん、ここで言う「自由」は、「好き勝手に生きてよい」という意味ではありません。
パウロははっきり言います。
「この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい」(5:13)
キリストによって自由にされた者とは、何にも縛られず、誰にも支配されない者です。
しかし同時にその人は「すべての人の僕となって仕える人」でもあるのです。
自由とは、関係性の中でこそ生きるもの。
自分の都合だけで生きることではなく、誰かに仕えることの中にこそ生まれる、もう一つの自由です。
「愛によって働く信仰」
パウロはこう言います。
「キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそ大事なのです」(5:6)
ここでの「愛」は、聖書でいうアガペー、すなわち神の愛です。
この愛に突き動かされて、わたしたちの信仰は命を吹き込まれ、実際に働き出す。
それは他者に仕える愛、他者を喜ばせる愛です。
「人生はよろこばせごっこ」――これはアンパンマンの生みの親、やなせたかしさんの言葉です。
誰かを喜ばせることが、自分の喜びになる。
それは、まさにキリスト者の自由のあり方に重なるように思います。
「時代に逆行している? いいじゃないか」
最近、朝ドラ「あんぱん」を観ていて、印象的な場面がありました。
戦時下、自由を失っていく空気のなかで、やなせたかしさんのモデルである「嵩くん」が銀座の自由な風景を描いたデザインを提出します。
それに対して指導教官はこう言いました。
「時代に逆行しているね。……いいじゃないか」
私たちの社会は「時代の最先端」であることが価値あることとして語られます。しかし、いまのわたしたちの時代はどんな時代でしょうか?
戦争があり、分断と対立が色濃くなる時代です。
キリスト者の自由とは分断と対立の時代に逆らい、愛に生きる自由です。
イエスさまはこう言われました。
「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)
キリストの真実に触れるとき、私たちはこの世の支配から解かれます。
自分の存在に安心し、自分らしく生きることができる。
誰かに強制されたのではない。誰かのために、自由に仕えたい。
そんな風に、もっともらしく生きる道が開かれていきます。
※この文章は2025年5月25日国立のぞみ教会で語られた説教を元に書かれています。
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