「キリストには体がない──いま、あなたの手足がそれだ」。

16世紀の修道女テレサの詩を思い出します。これは決して詩的なたとえ話ではなく、わたしたち信仰者がこの世界を生きる意味そのものを言い当てている言葉です。

パウロがフィリピの信徒たちに宛てた手紙は、そんな現実への問いかけに満ちています。しかもそれは、彼が獄中にいるときに書かれたものでした。自由を奪われ、行動も制限され、仲間たちの顔を見ることもできない。けれどその手紙には「喜び」という言葉が、何度も、何度も繰り返されます。

「きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。」(フィリピ1:12)。

これは常識では考えにくいことです。けれども、ここに福音の本質があるとパウロは語ります。彼の用いた「前進」という言葉は、密林を切り拓きながら進む軍隊のように、道なきところに道をつくる力を意味しています。福音は、困難のただ中でも進み続けるのです。

これは「気の持ちよう」や「ポジティブ思考」とは違います。パウロの喜びの源は、自分の内側ではなく、「キリストが中心にいてくださる」という確信にあります。だからこそ、投獄や苦難もまた、神のご計画の一部として見えてくるのです。

その姿勢を思い出させてくれる一人の牧師がいます。

かつて香港で牧会していたウィリアム先生は、政治的な抑圧の中でも非暴力と信仰による抵抗を貫き、やがてイギリスへと亡命しました。2021年、コロナによって天に召されましたが、先生の歩みは終わりではありませんでした。その証しは、エディンバラを含む5つの都市に、香港人の教会という形で福音を芽吹かせました。その教会のホームページにはこう記されています。

「正義を行い、慈しみを愛し、真実を語る」。

そこに、静かで強い福音の力を感じます。

「生きるとはキリスト、死ぬことは益です」(1:21)というパウロの言葉が、ウィリアム先生の人生と重なります。キリストに生きる者は、死すらも完成への一歩と見ることができるのです。だからこそ、どのような境遇でも、主に従って生きることは、わたしたちの使命であり、喜びでもあるのです。

「福音の前進」とは、大きな成果を上げることではありません。誰かを赦すこと。希望を手放さないこと。真実を語り続けること。日々の小さな従順に、福音の力が宿ります。

わたしたちは今、どこで、どのように「キリストの体」として生きるのでしょうか。どんな小さな一歩でも、主はそれを用いてくださいます。

福音は、今日も進んでいます。わたしたちの手足を通して。

※この文章は2025年6月1日に国立のぞみ教会の礼拝で語られた説教をもとにしています。

説教の要約はこちら⬇️

説教の動画はこちら⬇️

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