何か新しいことを始めるとき、あるいは人生の節目に立つとき、「まだよく分かっていないのに」「こんな自分で本当にいいのだろうか」と、足がすくむことはないでしょうか。
信仰を持つということも、おそらく同じなのだと思います。自分の不十分さを前にして、立ち止まりそうになる。そんな私たちが常に抱える不安に対して、聖書は少し意外なイメージを提示してくれます。
それは、「カンガルーの袋」です。 キリストとつながるということは、自分の力で必死にしがみつくようなものではない。もっと深く、安全な懐の中にすっぽりと入り込むような出来事なのです。自分の側から信仰の深さを測ろうとするのではなく、弱さや不十分さを抱えたままの自分を「あなたは私のものだ」と丸ごと引き受けてもらうことこそ、キリストとつながることなのです。
聖書の語る「永遠の命」とは、死後の世界の長い時間のことではありません。今ここで、そのように深く知られ、決して切れない関係の中に生き始めること。与えられた今日という命を、その安心の中で豊かに生き抜くことそのものなのです。
イエス・キリストは、この世を去る前、弟子たちを残して十字架へと向かう直前に、彼らのために祈りを捧げました。 「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください」
私たちは「栄光」と聞くと、輝かしい勝利や、目に見える成功を思い浮かべます。当時の弟子たちもそうでした。しかし、彼が栄光を求めた場所は、苦難の象徴である十字架でした。神の愛が最も深い形で現れるのは、人間の目には敗北に見えるその場所だったのです。 弟子たちは決して立派ではありませんでした。従う熱意はあっても、弱く、すぐに見失ってしまう。イエスはその弱さを知り尽くした上で彼らを愛し抜き、彼らのために祈りました。
私たちは時々、一人で孤独に闘っているように錯覚します。 中会女性の集いで、講師の篠原先生は「礼拝とは、アメリカンフットボールのロッカールームのような場所だ」と語られました。 私たちは礼拝の場において静かに自分を見つめ直し、そして再び、それぞれの日常というフィールドへ送り出されていきます。
そのフィールドでの日々は、時に厳しく、孤独を感じるかもしれません。しかし、私たちは孤軍奮闘しているわけではありません。目には見えなくても、世界中の同じ幹につながる人たちとの「共同戦線」に立っている。そして何より、私たちはすでに「祈られている」存在なのです。
祈りとは、神の力を受け止めるために自らの心に「帆を張る」行為だといいます。 私たちが自分の意志で風を起こす必要はありません。すでに吹いている風、そして私たちを命がけで愛し抜いたキリストの祈りが、私たちの背後にはあるのです。私たちが世へ遣わされる前に、彼が帆を張る手伝いをしてくれています。
私たちがすべきことは、ただその風を信じて、心に小さな帆を張ること。 「あなたは、祈られているのだから」 その静かな事実を胸に、今日もそれぞれのフィールドへと、ゆっくりと歩み出していきたいと思うのです。
※この文章は2026年5月17日に国立のぞみ教会で語られた説教をもとに書かれています。
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