「本来神ではない神々の奴隷となっていた」人々に向かって、パウロは書く。「神を知った、いや、神に知られているあなたがたが、なぜ再び、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に戻るのか」と。
彼の言葉には熱がある。いや、ほとんど叫びに近い。
「せん方尽くれど希望を失わず」。そう語る人が、ここでは「途方に暮れている」と語る。その心中は、決して軽くなかっただろう。
ガラテヤの人々は、もはや偶像を拝んでいたわけではない。むしろ、熱心に律法を守り、「正しく生きよう」としていた。だが、それこそがパウロには危うく見えた。
彼らは、「この世の基本原則」に逆戻りしようとしていたのだ。
それは今の私たちにも重なる。
100点を取らなければいけない。
いい親でなければならない。
立派な牧師、模範的なクリスチャンでなければならない。
そんなプレッシャーが、日常のあちこちに潜んでいる。
気づかぬうちに、「足りない自分」を埋めようと焦り、
気がつけば、自分を責め、縛り、疲弊させてしまっている。
それが「この世のもろもろの霊力」に縛られているということだ。
ユニセフの「子どもの幸福度ランキング」で、日本は身体的健康度こそ1位だが、精神的健康度は32位だった。これは私たちの社会が抱える、深い問題を映しているように思う。
「アカハラ」という言葉がある。国立市の一部でも、学歴の高い親が無自覚に子どもに100点を求め、できなければ責める。子どもたちはその重みに押しつぶされそうになっている。
でも、それは大人の問題でもある。
私たち自身が、「もっとできなければ」「まだ足りない」と思わされるこの社会の空気に、まず縛られているのだ。
パウロはこう言い直す。
「あなたがたが神を知った、いや、神に知られているのに…」
信仰は、私たちの理解や努力によって成り立つものではない。
先に、神が私たちを知り、呼び出し、つないでくださった。
そこに立脚しない信仰は、いつしか重荷に変わる。
マタイ19章に登場する金持ちの青年は、すべての戒めを守ってきたと語りながらも、「まだ何か足りない」と問うた。まじめさと誠実さゆえに、幸福をつかめずにいた姿だ。
それに対してパウロは問う。
「あなたがたの味わっていた幸福はどこにいったしまったのか?」
パウロのこの問いは、私たちの心にも刺さる。
パウロは言う。「私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください」
すごい言葉だと思う。
もし私が教会で「私のようになってください」と言ったら、どんな顔をされるだろう(笑)
でも、私は言ってみたい。
「キリストにすべてを委ねて生きるって、悪くないよ」
本当にそう思う。
先日、希望が丘教会で行われた「中会女性の集い」に出席した。懐かしい方々との再会の中で、私の教会の母・瀬底ノリ子先生とも話すことができた。
彼女の口癖はこうだった。
「信仰を持って生きるのは、楽しいことよ」
もちろん、信仰生活には苦労もある。でも、「それでも生きる喜びがある」。その言葉は、今も私の根っこに息づいている。
パウロは「キリストがあなたがたの内にかたちづくられるまで、私はもう一度苦しむ」と書く。
この「かたちづくられる」というギリシャ語は、外側の模倣ではなく、本質的な変化を意味する言葉だという。
それは、信仰的に完璧になることではない。
むしろ、弱さのただ中にキリストのかたちが少しずつ浮かび上がってくること。
「それでもクリスチャンか?」
そう問われたら、こう応えよう。
「はい、これでもクリスチャンです。」
キリスト者である根拠は、私自身の出来栄えではない。
私を知り、愛してくださっている方がいる――
その確かさが、私の信仰の土台なのだ。
※この文章は2025年5月18日に国立のぞみ教会の礼拝で語られたものをもとに書かれています。
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