マタイによる福音書の最後の方に、こんな一節があります。
「この最も小さな者の一人にしたのは、私にしたのである。」(マタイ25章40節)
イエスが地上で弟子たちに語った、最後の説教の言葉。
しかもこの言葉は、マタイ福音書にしか出てきません。
飢え、渇き、宿がなく、裸で、病み、牢に囚われている人――
イエスはそうした人たちの中に、自らを重ねられました。
遠い国の戦争や、飢えに苦しむ子どもたちのことを聞いても、
どこか現実味がないと感じてしまうことがあります。
衣食住の整った日本に暮らしている私にとって、
「何もしていない」という負い目だけが残るようなときもあります。
思い出すのは、20年前。
まだ伝道師として赴任したばかりのころ、
ある夜、助けを求めてきた家族に、泊まる場所を提供することができませんでした。
牧師館にはゲストルームがあったにもかかわらずーーー。
超早産で生まれた娘が退院したばかりで、
せっかく訪れた家族の時間を奪われたくなかったのです。
しかし、ふと胸に刺さった思いがありました。
「イエス様だったらどうしよう?」
その家族の顔を思い出すことはもうできません。
でも、私にとっては迎え損ねた“聖家族”として、ずっと記憶の中に残っています。
イエスは、右か左かを裁くためにこの言葉を語られたのではないと思います。
むしろ、弱さを抱える者たちに、もう一度宣教を託すためだったのではないでしょうか。
ペトロが裏切ると知っていても、イエスはなお語りかけられたように。
世界の痛みに対して、私たちはすべてに応えることはできません。
何をしたらいいのかわからず、うろたえるだけのときもあります。
でも、実はその“うろたえ”こそが、無関心から抜け出す第一歩なのかもしれません。
神はそのうろたえのただ中におられ、
ともに泣き、ともに祈り、そして私たちを招いておられる。
一人の声に耳を傾ける。
目の前の人の痛みに少し寄り添う。
たったそれだけのことを、主は「私にしてくれた」と言ってくださる。
私たちは忘れてしまっても、主は覚えていてくださる。
※これは2025年3月30日にした説教を元に書いたものです。
説教の要約版はこちら

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