2000年前のある日、風のような音が響き、炎のような舌が弟子たち一人ひとりの上にとどまりました。
それが「教会の誕生日」と呼ばれるペンテコステ。
部屋の中に閉じこもっていた弟子たちは、聖霊に満たされ、部屋を飛び出していきました。
そして、まったく知らなかった異国の言葉で、神の偉大な業を語り出したのです。

この「多言語の奇跡」は、聖霊がバラバラな人々をつなぎ合わせ、一つの群れとされた出来事でもありました。
けれどその「一致」は、みんなが同じになることではありません。
むしろ、違いを抱えたまま、それでもつながっていく——そんな一致でした。

パウロは、フィリピの教会に手紙を書きます。
「同じ思いとなり、心を合わせ、思いを一つにして」と。
しかし、それは努力による一致ではありません。「キリストの心を心とせよ」と語るパウロの言葉にこそ、核心があります。

教会は、完全な人々の集まりではありません。
罪と弱さを抱えた私たちが、ともに集まっている。
だからこそ、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」という勧めが必要なのです。

キリストの心とは何でしょうか。
それは、神のかたちでありながら、人となられ、仕える者として生き、十字架の死に至るまでへりくだられた心です。
力ではなく、仕える姿によって示された神の国の姿です。

この世界では、利己心や虚栄心が支配します。
「誰が一番偉いか」をめぐって競い合う姿は、2000年前の弟子たちだけのものではありません。
けれども、キリストは違った。
金や軍事力で平和を築こうとするローマ帝国に対し、キリストはへりくだりと犠牲を通して、命と復活の道を開かれました。

私たちも、そのキリストを模範として生きる者とされたい。
スポーツでも芸術でも、まずは「真似ること」から始まります。教会もまた、キリストを真似る群れです。

パウロはこう語ります。
「恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい」
それは、日々の歩みの中で、キリストの心を追い求め続ける信仰の姿です。

そのように歩む教会の姿は、「星のように輝く」とパウロは表現します。
光が輝くのは、暗闇があるから。
混迷するこの時代にあって、なおも輝きを放つ群れとして、私たちは聖霊に支えられて立ちたいのです。

私たちは土の器にすぎないかもしれません。
でもその中には、宝が宿っている。
それが、キリストという命の言葉です。

ペンテコステ——それは、教会がこの世界に光を放ち始めた日。
聖霊は今も私たちの内に働き、キリストのへりくだりを教え、私たちを「星のように輝く者」として遣わしてくださる。

あなたの中の光は、今、どこで輝いていますか?

※この文章は2025年6月8日国立のぞみ教会ペンテコステ礼拝での説教を元にしています。

説教の要約はこちら⬇️

説教動画はこちら⬇️

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