✨走り出した先に、主はおられた
今年のイースターは4月20日。
移動祝日としては遅めの日付だったけれど、教会は前日から準備を進めて、この日を迎えた。
子どもたちは朝早くから野外礼拝へ。森の中で復活のメッセージを聞き、エッグハントで喜びを分かち合う。大人たちも洗礼式と愛餐会の喜びにあずかる、そんな特別な日だった。
けれど最初のイースターは、そんなふうに準備万端で迎えられた日ではなかった。
マグダラのマリアともう一人のマリアは、「今日は復活の日だ」なんて知る由もなかった。
彼女たちは、イエスが十字架の上で叫び、息を引き取られるのをその目で見届け、墓の前に座り続けていた者たちだった。
マタイによる福音書は、その彼女たちが、安息日が明けた朝に「墓を見に行った」と記す。
その行動は、希望のためではなかっただろう。
愛する方の死を、どうしても受け入れられず、でもどうにもできない――
そんな思いの中での、足の向きだったのではないだろうか。
ところが、そこで彼女たちは“予想外の知らせ”に出会う。
天使が現れ、「あの方は、ここにはおられない」「復活なさった」と語る。
墓は「記念の場所」――死を語る場所だったはずなのに、そこにイエスはいなかったという事実が、「福音」として彼女たちに告げられる。
不安と混乱の中、それでも彼女たちは「走り出した」。
そして、その走り出した先で、イエスと出会った。
この物語を読むたびに思う。
信仰とは、「すべてを理解したうえで」踏み出すものではない。
分からないなりに、信じて一歩を踏み出すこと。
その先にこそ、主イエスとの出会いが待っているということ。
この日、洗礼を受けたYさんの歩みも、
まさにこの「走り出した信仰」の物語だった。
人生のどん底のようなときに教会を訪れ、
最初は礼拝の言葉も、牧師のメールに書かれている聖句もよく分からなかった。
でも、通い続ける中で、少しずつ、祈りと賛美の中に「自分の居場所」が与えられていった。
やがて、「この道を歩んでみよう」と決意し、洗礼へと導かれた。
信仰は、“わかってから動く”ものではない。
“動いた先で出会う”ものなのだと思う。
墓に向かったマリアたちも、人生の岐路で教会の扉を叩いた彼女も、
そして、何度も迷いながらそれでも祈り続ける私たちも。
皆、それぞれの「走り出し」を抱えている。
イエスは、その先に立っておられる。
「恐れるな」「行って告げよ」
それは、ただ天使がマリアたちに語った言葉ではない。
いまを生きる私たちにも向けられている言葉だと思う。
だから私もまた、牧師として語り続けたい。
わからなくてもいい。
不安があってもいい。
走り出すこと、それが信仰なのだと。
そしてその先に、
主が立っておられることを、信じていたいと思う。
この記事は2025年4月20日の礼拝で語られたものに基づいて書かれています。
説教の要約はこちら⬇️

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