作家・井上ひさしさんの言葉に、こんな一節があります。
「人権とは平べったく言えば『自分の運命は他人ではなく自分で決める事のできる力』のことです。」
井上ひさし『にほんごの観察』より
この「平べったく」という語り口に、井上さんらしい優しさと鋭さを感じます。
言われてみれば、「自分で決める」こと――たとえば、どこで暮らすか、何を学ぶか、誰と過ごすか、どんな人生を生きるか。それはすべて、人としての当たり前の尊厳に関わることです。そしてそれが、力によって一方的に奪われる時、それこそが「人権の蹂躙」なのだと改めて思わされます。
いま、世界のあちこちでこの“当たり前”が奪われています。
イスラエルによるパレスチナ・ガザへの侵攻。
ロシアとウクライナの争い。
一方的な暴力と支配によって、人々の生活も命も、人生の選択肢さえも奪われていく。その中で、ただ平和に暮らしたかった人たちが、家を失い、大切な人を失い、故郷を追われていく。まさに、自分の運命を自分で決めるという最も基本的な力が根こそぎ奪われていくのです。
「戦争とは最大の人権侵害である」
この事実を、私たちはけっして忘れてはならないと思います。
人権というのは、一人ひとりが「神から与えられたかけがえのない存在」であるという前提に立つものです。
聖書の中でも、イエスはつねに「声なき声」に耳を傾けておられました。女性、病者、貧しい人々、外国人。社会の周縁に置かれていた人々の名を呼び、尊厳を回復されました。誰もが、神の前に大切な存在であることを、行動と言葉で示してくださった。
いまこの時代に生きる私たちもまた、「神から与えられた命を、自分の意思で豊かに生きる」ことの意味を、もう一度見つめなおす必要があるように思います。
先日、フランシスコ・ローマ教皇が天に召されました。教皇はその歩みの中で、つねに貧しい人、抑圧された人に寄り添い、戦争や核兵器に対して明確に「NO」を突きつけてきました。
「平和は『絶えず築き上げていく』ものであり、共通善、真実、法の尊重を追求する中で共に歩む旅である」(2023年1月1日「世界平和の日」のメッセージから)
そんな教皇の姿勢に、私は深く共感します。
祈ることしかできない。そう感じる時もあります。 でも、祈ることこそが、無関心ではいないという意志表示だと思います。 その祈りから、私たちができる小さな行動を起こしていくことが「平和を作り出す」ことになると信じます。
自分の運命を自分で決めることができる。 そんな当たり前がすべての人に保障される世界。 そのために、私も今日できる小さな一歩を、選びたいと思います。

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