「説教は、もともと文字ではなく声の響きである。」
どこで読み、メモをしたのか忘れてしまったが
ネタ帳を整理していた中で見つけた渡辺信夫先生の言葉だ。
神学生のころ、のぞみ教会の前任牧師の朝山先生にこう教わった。
「説教原稿は、なくてはならず、あってはならず」
今でも私は説教原稿を基本的ほぼすべて書く。
でも、読むためには書かない。
自分なりに考えを整理し、流れを頭に入れるために原稿は書く。
説教壇で原稿を読むことはしない。
その場で順番が変わったり、抜けたり、原稿にないことを語ることもある。
説教は「ライブ」だと、私は思っている。
説教者の声だけでなく、
会衆のまなざし、沈黙、空気の張り方、祈りの息づかい、居眠り――
そういうものと一緒に、説教者から言葉が生まれ、放たれていく。
だからこそ、原稿どおりに説教は進まない。
けれど、その場にしか生まれない「言葉」が、「出来事」がある。
関田寛雄先生は、こう言われた。
「牧会なくして説教なし」
この言葉は、私の中で静かに、でも深く根を張っている。
日々の祈り、出会い、交わりの中で、
語るべき言葉が少しずつ形になっていく。
誰かの苦しみや問いが、
私の語る言葉のどこかに混ざり、
そして、また別の誰かの心に届いていく。
そうやって、説教の言葉が生まれることを祈りつつ
私は一週間を過ごす。
語るというより、「差し出す」ように。
教えるというより、「共に歩む」ように。
日々出会う人の言葉、祈り、沈黙――
そこからしか、自分の語るべき言葉は生まれないと思っている。
わかったつもりにならないように。
答えを急がないように。
共に迷い、共に尋ねながら語れるように。
そのことを、祈りながら説教台に立っている。
説教は、教える言葉ではなく、
主にあってともに生きようとする言葉。
そう信じたいし、そう語り続けたいと願っている。
そして今日も、語りながら、自分自身が教えられている。
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