説教の要約「祈りの格闘」

2022年3月20日礼拝説教要約「祈りの格闘」マルコ14:32−42

イエス様が十字架を目前にする中で祈られた祈りが「ゲツセマネの祈り」だ。イエス様はこれまで弟子たちに繰り返し受難と復活のことを伝えてきた。それが神の計画であることを知り、覚悟を持ってエルサレムへ向かわれた。しかし、イエス様はAIロボットのように死の恐れなど感じずに十字架への道を歩まれたのでは決してない。イエス様はひどく恐れてもだえ始め、地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみが過ぎ去るようにと祈られた。それが「ゲツセマネの祈り」だ。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。イエス様はまず「この杯をわたしから取りのけてください」と願った。このことをまず覚えたい。

私たちはこの祈りをよく知っている祈りとして、簡単に祈ってしまうかもしれない。しかし、死ぬほど辛く、不安と苦しみに悩む中で、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ることは、決して簡単ではない。「祈りとは格闘である」(フォーサイス)。私の大好きな言葉の一つである。「御心に適うことが行われますように」という主イエスの祈り言葉は、祈りの格闘の果実である。

祈りとは、「神仏に願うこと」と辞書にはある。その通りだ。イエス様もまず「アッバ、父よ」にご自分の願いを打ち明けられた。しかし、祈りとは願うだけではない。祈りとは神の言葉を聞くことである。祈りとは神の意志に私たちの意志を合わせていく行為だ。神が私たちに何を望まれているのかを聞き取ることが祈りの本質である。イエス様の「ゲツセマネの祈り」は、私たちにそのことを告げている。

しかし、この主イエスの必死の祈りの戦いの最中、弟子たちは眠りこけてしまう。しかも何度も繰り返して……。どうしようもない弟子の姿だ。しかし、まさにこれが私たちのありのままの姿だ。どんなに強がっても、死ぬ覚悟ができていると豪語しても、弱さを抱えているのが弟子たちのあるのままの姿だ。

しかし、イエス様はこの弟子たちの弱さを知っていてくださる(27節以下)。弟子たちの弱さを、敗れ去ってしまうことを、祈れなくなってしまうことを主は知っていてくださる。その上で主イエスは「立て、行こう」(42節)と弟子たちに言われる。これはイエス様ご自身の迷いを振り切った決意溢れる言葉のように思える。しかし、また同時に「立て」は「目覚めよ」、「蘇れ」とも訳せる。

もう一度! と弱く、裏切ってしまう弟子たちへの呼びかけの言葉でもある。逃げさってしまう弟子たちに主は「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(27節)と約束された。私たちは眠りこけてしまう。肉の思いに負けてしまう。しかし、主はまどろまず、私たちに先立ち、今一度「立て、行こう」と招いてくださる。

私たちは礼拝のたびに主の祈りを共に祈る。私たちは主の祈りを一人で祈るのではない。教会の仲間たちと、そして何よりも主と一緒に祈るのだ。「御心がなりますように」と。復活の主が今一度、眠りこけてしまう私を招いてくださり、一緒に祈ってくださるから、私たちはここから新たに「祈りの格闘」に臨むことができるのだ。感謝!

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