説教の要約「そんな人は知らない」

2022年3月27日礼拝説教要約「そんな人は知らない」マルコ14:66-72

「あなたがたの言っているそんな人は知らない」。ペトロが三度、イエス様を「知らない」と否定した出来事は4つの福音書すべてに記録されている。主イエスはゲツセマネでの祈りの後、逮捕され大祭司の屋敷に連行され、裁判にかけられた。ペトロは「遠く離れてイエスに従い」、大祭司の中庭に潜り込み、火にあたっていた。「遠く離れて」というところにペトロの複雑な心境が表されているように思える。火にあたっていたペトロはどんな様子だっただろう。彼の呼吸、目の動き、その座り方はどんなだったろう。もしあなたが受難劇でペトロを演じることになったら、この時のペトロをどう想像し、表現するだろうか。

緊張は高まるばかりだ。イエス様はどうなるのか? 自分たちはどうなるのか? そんなことをペトロは考えたに違いない。その時、一人の女中がそのペトロに気づき、彼をじっと見つめて「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言う。ドキッとする場面だ。一度騒ぎ立った波が徐々に大きくなる。女中は、今度は周りの人々にペトロがイエスの仲間であることを告げる。ついにその場にいた人々が騒ぎ出し、「お前はあの連中の仲間だ」と言い出してしまった。

ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。呪いの言葉とは、嘘をついたら自分が呪われてもよいという意味と、「あんな奴、地獄にでもいけ」とイエスを呪う言葉である可能性もあるという。どちらであるのかはわからないが、ペトロははっきりとイエスとの関係を拒絶したのだ。

するとすぐ、鶏が再び鳴いた。その刹那ペトロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。受難物語の中で、もっとも印象深い場面の一つであり、このペトロが激しく泣き崩れる場面は何度読んでも私たちの心を打つ。全身のわななき、歯と歯がガタガタと音を立てるのを抑えることができない。腰から力が抜けて、地面に倒れ込むように泣き崩れたのだろうか。ペトロという「岩」は崩れ落ちてしまった。

初代教会のリーダーであったペトロの大失敗である。本当なら隠しておきたいスキャンダラスな事件である。だが、すべての福音書がこの事件を記している。それは自分の失敗を抜きに、ペトロは「福音」を語ることはできなかったことの証だと思う。主イエスを呪って捨てたペトロが、主イエスによってもう一度招かれ、赦され、遣わされた。その体験が教会の礎となったのだ。教会は決して正しい者の集まりではない。

もし私たちの信仰が、私たちの覚悟、私たちの気の持ちよう次第だったとするなら、こんな不安定な、不確かなものはない。「しかし、わたしはあなたたちのために、信仰が無くならないように祈った(ルカ22:32)。ペトロはこの祈りに支えられたのだ。イエス様はペトロがつまずき、信仰が無くなってしまうような経験をすることを知っておられた。私たちもサタンのふるいにかけられ、祈る気力さえ失ってしまう時がある。大失敗をして落ち込むことがある。神を礼拝する思いにならない時さえある。しかし、主イエスは私たちのためにすでに祈ってくださった。この主イエスのとりなしの祈りに、私たちの信仰は支えられているのだ。主イエスこそ私たちの岩だ。だから、私たちはまた主に従っていけのだ。

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