説教の要約「なぜわたしを見捨てたのか」

2022年4月10日礼拝説教要約「なぜわたしを見捨てたのか」マルコ15:33-41

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)。十字架上の主イエスの言葉としてもっともよく知られ、もっとも不思議な言葉である。他の福音書が記す「父よ、彼らをお赦してください。自分が何をしているのか知らないのです」と言った言葉は、実に神の子らしい言葉として受け止めやすいものだ。しかし、マルコのイエス様の壮絶な叫び声はつまずきを含む言葉でさえある。神の子がなぜこのような言葉を発したのか? そのような疑問さえ浮かぶのである。

多くの人たちがこの主イエスの叫びは詩編22編の冒頭であると指摘する。主イエスは十字架の上で詩編を祈っておられたのだ。詩編22編は嘆きから神への信頼、神への賛美へと昇華していく。主イエスは十字架で神を礼拝していたのだ。そのようにこの主イエスの叫びを読み解いていく。

しかし、わたしはこの主イエスの嘆きの言葉を、嘆きとして、絶望の叫びとしてそのまま聞く方がマルコ福音書のメッセージに触れるのではないかと思う。十字架の下に立つ者たちはみな自分の神の子像を抱えていたことを聖書は記している。「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」、「待て、エリヤが彼を降ろしにくるかどうか、見ていよう」。十字架から奇跡的に降りてくるような者こそが「神の子」にふさわしいという思いがあったのだ。

十字架の上でなおも最後まで神様を礼拝していた。それこそ神の子にふさわしい。神の子イエス様にはそうであってほしい。もし私たちがそのような願いを十字架のイエス様にもつならば、あの十字架の下の人々と同じ根を持っているのかもしれない。
マルコ福音書は「百人隊長は、『イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった』と言った」と記す。マルコ福音書でイエス様のことを人間の口を通して「神の子」と告白されるのはこの場面が最初で最後なのだ。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始められた福音書において、神の子とはいかなる方であるのかが、明確に示されたのがこの百人隊長の告白なのである。大胆に言ってしまえば、このようにイエス様が息を引き取られたことが「福音」ということだ。

無残に、理不尽に殺されたこの男のどこに「喜びの知らせ」があるのか? 何の希望もない、まさにイエス様の十字架にかけられている時に、全地が闇になった。絶望が支配している。しかし、逆説的でしか言えないけども、その絶望を、暗闇の只中に、神の子がおられる! それこそが神の子イエス・キリストの「福音」なのだ。

「なぜですか神様?」「神様に見捨てられているとしか思えない」。嘆きが今も私たちの世界に満ちている。しかし、まさにこの叫びを引き受けられるために、イエス様は十字架に架けられなければならなかったのだ。「神の子なら十字架から降りてこい」という叫びの中で、イエス様は神の子だからこそ十字架から降りることはなかったのだ。それは、私たちの発する何故の只中に神が共にいてくださるためだ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この主イエスの叫びは、どこまでも私たちと共にいてくださる神の愛の叫びなのだ。嘆きが確かに私たちにある。孤独の痛みを抱える。しかし、私たちは主にあって希望を持って嘆くことができるのだ。主が愛の叫びを上げてくださったから。

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