説教の要約「「知られざる神」が明らかに」

2022年4月24日礼拝説教要約「「知られざる神」が明らかに」使徒17:22-32

ギリシアの中心地アテネでパウロは「イエスと復活についての福音」を説教した。当時のアテネは5000人ほどの人口であったと言われるが、町には大小様々な神殿や神々の彫刻があった。人間の数より像の方が多かったようだ。それだけ多くの神々の像を作り、祭壇を作り、礼拝しているアテネの人々に向かって、パウロは皮肉も込められているのかとは思うが、「信仰のあつい方」と呼びかけ語りだす。なぜなら「知られざる神に」さえ祭壇を築き、礼拝をしているからだ……。

聖書学者のブルトマンはこの箇所からの説教で「神々が増える、祭壇が増える、それは、不安がとても増えていることのしるし」と指摘する。偶像の本質は人間の不安なのだ。文化都市アテネに暮らし、高度な教養を身につけたアテネの人々の心の憶測には、心の奥底には不安にあふれていたということだ。

その中でパウロは、天地を創造された神、「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる」神を伝える。神によって造られた人間が、神の住まいを造ったり、まして金や銀などの像にすることはできないのだ。神の御手の中で、神の造られたこの世界の中で私たちが生かされているのに、神を人間の手の中に納めようとする。全世界を造られた方を、私という小さな領域に、この神殿、この彫刻の中に閉じ込めようとする――それも不安から生じる行為かもしれないが。

神は人間から何かを求める神ではなく、むしろ神は命と息と、すべてのものを与えてくださる方だ。神が「先にお選びになった一人の方」イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、与える神であることを示されたのだ。神はご自分の命さえ、愛のゆえに、わたしたちに与えてくださる神なのだ。その証がキリストの死と復活に他ならない!

新しい時代となったいま、死の不安から、罪の不安から神を礼拝するときは終わった! だから、そのキリストの命を、受けて生きるようにとパウロは招くのだ。キリストの命を受け、キリストの愛の中に歩む出すことが、「悔い改め」だ。私たちの罪を包み、赦し、その愛によって祝福されるのがキリストによって示された神であり、それが「この世を正しく裁く」ということだ。この神様の愛を不要とすることが人間にとって「裁き」となるだ。
わたしたちもいま「不安」の時代に生きるものだ。アテネ時代にくらべても、様々なことが進化し、文明化された時代に、社会に暮らす私たちだ。しかし、私たちも不安を抱えて日々を生きている。コロナも、戦争も、経済的な不透明さも、不安定なこの歴史状況の中で、私たちは「これから先、どうなるのだろうか」。何が私たちを導いてくれるのだろうかと、不安を抱えている。「死」の不安を抱えながら生きている。

私たちは何か「金の子牛」のような分かりやすい「偶像」を作ることはないだろう。「知られざる神に」という祭壇を作るわけでもないだろう。これがなければ「不安」、またはこれさえあれば「安心」と私たちに思わせるものが、「偶像」に簡単になってしまう。能力、財力、学力、権力、軍事力……私たちは不安を埋めるために「力」を欲する。しかし、キリストを死者の中から復活させた「神の力」、命を生み出し、愛を与える「神の力」こそ、私たちには必要なのだ。あなたはいま何を求めて生きるか。

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