説教の要約「全く自由に何の妨げもなく」

2022年6月5日ペンテコステ礼拝説教要約「全く自由に何の妨げもなく」使徒28:17-31

パウロはついにローマに到着した。パウロは囚人であったが自費で家を借り、番兵を一人つけられていたが、自分で住むことが許されていたようだ。囚人として「自宅監禁」といったところだろうか。「このように鎖につながれている」(20節)ともあるように、パウロは全くの自由ではなかった。しかし、ローマにおいてパウロは「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(31節)。そのパウロの姿を記して使徒言行録を記した著者ルカは筆を置く。その後、パウロはどうなったのを使徒言行録は一切報告しない。

ルカはパウロがどうなったのかを知っていたはずだ。おそらく使徒言行録を最初に読んだ読者たちもパウロがその後どうなったのかを知っていたと思われる。パウロは諸説あるがおそらくローマで処刑されたと思われる。にもかかわらず「神の国の福音」が届き、主イエス・キリストについて教えられている。キリストの命が、キリストの恵みが確かに、疑いなく、自分たちに届けられている。

パウロは召された。しかし、パウロが召されたことで、神の国が宣べ伝えられ、主イエス・キリストの教えも途絶えたのではなかった。偉大な伝道者パウロが召されたとしても、キリストの福音はなおも進んでいったのだ。

教会の宣教の歴史を考えれば、「全く自由に何の妨げもなく」神の国を伝えきたわけではない。使徒言行録に記される宣教の物語には、つねに反対があり、攻撃があった。聖霊降臨直後、宣教を開始した直後のペトロたちは早速、逮捕され、取り調べを受ける(使徒4章)。イエスの名を語るなと脅され釈放され、仲間のところ(教会)へ戻る。その時、信徒たちは心を一つにして「今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(4:29)と祈った。そして祈りが終わると、その場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした! この「大胆に」というのと、使徒言行録の最後に記されている「全く自由に」という言葉は同じ言葉なのだ。教会の宣教は、妨害を受け、不自由を覚える。しかし、その中で、全く自由に、思い切って大胆に、正々堂々と御言葉が語られ、福音は拡がっていくのだ。

先週、一足先に伝道委員会の「宣教ニュース」を目にした。そこには昨年まで報告はなかった「英国」からの宣教報告があった。「イギリスでの取り組みは、非常に順調に進んでいます」と書き始められたレポートには、香港中会から移籍する教職志願者や香港人の女性が教職志願者として手を上げていることなどが報告されていた。私はその報告を読み文字通り震えた。この働きは昨年、主に従ったゆえに香港を離れざるを得ず、イギリスに渡り、そしてコロナによって召されたウィリアム先生によって始められたものだ。

ウィリアム先生は思いがけない形で召された。しかし、なおも教会の宣教が「非常に順調に進んでいます」という突き抜けた明るさに戸惑いを覚えると同時に、「全く自由に何の妨げもなく」教会の宣教が進みゆく不思議さを教えられた。宣教というのは、本当に人間の思いを超えている神様の業だ。教会の歩みは、私たちの目に「順調」と映ることが決して順調であるとも限らないし、私たちの目に課題と思えることが実は恵みの入り口だったりもする。だから恐れることなく、大胆に御言葉に従い、語り続ける群れでありたい。

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Posted by pastorkenta