説教の要約「ライオンバスは好きだけど」

2022年9月11日主日礼拝説教要約「ライオンバスは好きだけど」ダニエル6:10-25

ダレイオス王が治める時代に、ダニエルは帝国の第3の位にまで出世し、120人の総督を管理する3人の大臣の1人になっていた。彼は政務に忠実であり、王からの信頼も厚く、王はダニエルに王国全体を治めさせようとしていた。

ところが、「ユダヤからの捕囚民の一人」であったダニエルが活躍するのを妬ましく思う大臣や総督たちが、ダニエルを陥れようと画策する。何とも嫌な話しであるが、全くもってよくある話しである。政務に関しては何の汚点も怠慢もダニエルに見出すことのできなかった彼らは、言いがかりをつけるために「信じている神の法」に関することで攻めてきた。彼らは30日間は王以外に願い事をするものは誰でも、獅子の洞窟に投げ込むという法律を王に提案し、ダレイオス王はそれに署名してしまった。

ダニエルはそのことを知りつつも、「家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」(11節)。ダニエルはライオンの洞窟へ投げ込まれることになる状況にも関わらず「いつものとおり」神に祈りと賛美をささげた。監視の目を盗んで礼拝することも考えられるし、実際そのようにして迫害下において信仰を貫いてきた人々もいる。このダニエル書を最初に読んだ人々はヤハウェ礼拝を禁じられたユダヤの人々であった。ダニエル書の著者そのような信仰の試練に直面している神の民に「いつものとおり」礼拝をささげたダニエルが、たとえライオンの洞窟に投げ込まれたとしても、「神を信頼していた」者は神が必ず救い出すというメッセージをこの物語を通して告げたのだ。

ダニエルは「いつものとおり」静かに神に祈りをささげた。神への祈りこそ、ダニエルにとって命だったということだ。彼は少年時代に戦争に破れ、国は滅び、故郷を失った。外国に捕囚として連れて行かれ、名前を奪われ、言葉を奪われた。それでもバビロンの要職に就き、エリートとして歩んでいるわけだが、複雑な思いもあったに違いない。

自分は何者であり、どこから来て、どこへ行くのか? 自らのアイデンティティを強烈に問われる経験があったとしてもおかしくはない。その中で神に祈ることこそ、ダニエルがダニエルであること、神の民であることを知るときであったのではないかと想像する。「エルサレムに向かって開かれた窓際」は、ダニエルにとって聖域であり、その祈りの時間は単なる習慣ではなく、聖なる時間であったのだと思う。その窓際の祈りによってダニエルの人格は形作られたに違いないのだ。だからこそ、ダニエルは、王が署名したことを知りつつも、「いつものとおり」に祈ったのだ。いや祈らずにはおれなかったのだ。

私たちはライオンの洞窟に投げ込まれることを想像するのは難しい。しかし、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Ⅰペトロ5:8)とある。獅子が襲ってくる不穏な時代が確かにある。しかし、その中で「いつものとおり」にいのちの神に祈り、礼拝する。神に向かって「開かれた窓際」を持って生きたいと思う。ダニエルのように私たちはしずかに冷静にふるまうことはできないだろう。おろおろしながら歩むのが、わたしたちの現実だ。それでも神へむかって開かれた祈りの窓辺があることを忘れないでいたい。その窓から、神の命の光、希望の光が、キリストの復活の光が私たちの注ぎ込むのだ!

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