幼い頃に通った幼稚園の壁に、一枚の絵が掛かっていました。白い衣をまとい、杖を手に、小さな羊を優しく抱きかかえる男の人の姿。足元には、彼を信頼しきった羊たちが寄り添っています。
「イエス様は良い羊飼い」。
キリスト教に馴染みのある人にとって、それはあまりに耳慣れた、穏やかで美しいイメージかもしれません。しかし、聖書を読み進めていくと、この「私は良い羊飼いである」という言葉が、当時の人々にとってはいかに衝撃的で、怒りさえも引き起こす激しい宣言であったかに驚かされます。
ある者は「気が変になっている」と蔑み、ある者は怒りに震えて石を投げつけようとしました。なぜ、これほどまでに人々はさざ波立ったのでしょうか。
「私こそが」という静かなる宣言
聖書を原文で紐解くと、そこにはある種の凄みが宿っています。
イエスはここで「何人かいる良い羊飼いのうちの一人(a good shepherd)」だとは言っていません。「私こそが、その良い羊飼いである(the good shepherd)」と断言しているのです。
この「私は〜である」という言い回しは、聖書においては神が自らを明かすときにのみ用いる特別な表現でもありました。つまり彼は、自分こそが旧約の時代から約束されていた、唯一無二の存在であると宣言したのです。
かつて預言者エゼキエルは、私利私欲に走り、群れを食い物にする指導者たちを「悪い羊飼い」と厳しく糾弾しました。
自分たちは肥え太りながら、羊たちが散り散りになるのを放っておく牧者たち。その姿は、悲しいかな、二千年の時を経た現代の国際情勢や社会の歪みの中にも、既視感を持って立ち現れてきます。
命を「奪う声」と「与える声」
現代の私たちの周りには、あまりに多くの「牧者たちの声」が溢れています。
「敵を倒さなければ平和は来ない」と叫ぶ声。「能力のない者には価値がない」と囁く社会の声。「お前は誰からも愛されていない」と絶望へ誘う内なる声。
それらの多くは、私たちを不安にさせ、分断し、時には「大義のために命を捨てろ」と命じます。安全な場所に身を置きながら、羊を犠牲にする。それがこの世に蔓延する「盗人」の声の正体かもしれません。
しかし、主イエスが語る「良い羊飼い」は、全く逆の道を歩みます。 羊に命を捨てさせるのではなく、羊を生かすために、自らの命を捨てる。 その「良い(カロス)」という言葉には、「本物の」という意味が含まれています。相手を支配するのではなく、一匹一匹の名前を呼び、その痛みを知り、自分の命を投げ出してまで守り抜く。その徹底した愛のあり方こそが、彼を「本物」たらしめているのです。
「知られている」という安らぎ
ここで語られる「知る」という言葉は、単なる情報の把握ではありません。それは、夫婦や親子の深い結びつきを表すような、全存在をかけた愛の関係を指しています。
「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」
この相互の深い信頼こそが、私たちの命を豊かにします。たとえ世界がどれほど騒がしく、破壊の足音が近づこうとも、「私はあなたを知っている、愛している」という絶対的な肯定に包まれていること。それこそが、私たちが受けるべき「永遠の命」の正体ではないでしょうか。
どの声に従って歩むか
私たちは毎日、無数の選択を迫られています。 どのニュースを信じるか。どの言葉を自分の指標とするか。
羊にとって最も大切なことは、羊飼いの声を「聞き分ける」ことです。偽りの声に惑わされず、自分を本当に生かそうとする声、自分を名前で呼んでくれる声を見極めること。
戦争と分断の時代、私たちがどの声に従って生きるのかは、まさに生死を分けるほどの重みを持っています。
命を奪う者の声ではなく、命を与える者の声に耳を澄ませたい。 その静かな、しかし力強い「響き」を頼りに、私たちは今日、また一歩を踏み出します。
※この文章は2026年4月19日国立のぞみ教会で語られた礼拝説教をもとにしています。
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