皆さんは旅の計画を立てるのが好きでしょうか?
私は、できるだけ効率よく、無駄なく目的地にたどり着きたいタイプです。渋滞情報をチェックして、最短ルートを選びたくなる。そんな性分です。
けれど、信仰の旅はどうやらそうはいかないようです。
7月の礼拝では民数記を読み進めます。あの、イスラエルの民がエジプトから脱出して荒野を旅したときの物語です。原語の表題は「荒野において」。まさに、あの旅は「荒野の旅」だったのです。
彼らは雲に導かれて旅をしていました。
「雲が幕屋の上にとどまっていれば宿営し、雲が上れば旅立った」と聖書は記します。どれくらい休むのか、いつ出発するのか、誰にもわからない。雲の動きがそのすべてを決めました。昼でも夜でも関係ありません。法則もありません。ただ「主の命令」に従って進み、止まったのです。
これを自分に置き換えて想像すると──私は、間違いなく不安になります。イライラもすると思います。目的地に早く着きたい。次はいつ進めるのか、せめてスケジュールくらい教えてほしい。けれど神さまは、あえて人間の計画を覆すように導かれる。
神の民は、「神のペース」で歩くことを求められたのです。
神の道は、人の道よりも高い。イザヤ書にあるその言葉の通りです。ときに近道ではなく遠回りを、スムーズな進行ではなく、思いがけない長い停滞を命じられる。でも、それが神の民の旅路でした。
この荒野の旅は、私たちキリスト者の人生とも重なります。私たちは、神の国というゴールを目指して歩く旅人です。「この世では寄留者であり、滞在者なのです」とペトロの手紙にもある通りです。教会もまた、荒野を歩く旅の群れです。
そして、この旅は人間の計画通りにはいかない。
教会として未来を見据えて計画を立てようとします。でも、現実はどうでしょう。宣教のビジョンを描いても、思うように進まない。社会は不安に満ち、分断が深まっています。少子高齢化、災害、戦争……未来への不安は尽きません。
そんなとき、私たちが思い出すべきことは何か。
「主の命令に従って旅をする」ということです。
パウロのことも思い出します。自分ではアジア州で宣教しようとした。でも、聖霊に禁じられた。次に目指したビティニアにも行けず、結果として海を渡り、マケドニア──今のヨーロッパに向かいました。パウロ自身の計画とは違った道。けれどそこに神の計画があったのです。
「神のペースで歩む」とは、すべてを神に委ねることではありません。自分の歩みを投げ出すことでもありません。むしろ、一歩一歩、自分の足で歩きながらも、導きは自分ではなく主から来ることを覚える──そういう生き方なのです。
現代という荒野の中で、私たちは何を目印に歩けばよいのでしょう。
雲でしょうか?火の柱でしょうか?──いいえ、神はイエス・キリストという目に見えるお方をこの世界に与えてくださいました。
イエスは良き羊飼いであり、命のパン、命の水であり、道そのものです。
そのイエスを見つめて歩むこと。それが、神のペースで歩むということです。
進めと言われたら、ためらわずに歩き出す。止まれと言われたら、不安を抱えつつも待つ。焦らず、あきらめず、一歩ずつ。
神の国という約束の地へと導かれる旅。その道中で、イエスという道しるべが、いつも私たちの前に立ってくださっています。
今週も、その方を見つめながら、私たちの荒野の旅を神の国を目指して続けていきましょう。
※この文章は2025年7月6日の礼拝説教を元に書いています。
説教の要約はこちら⬇️
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