のぞみ教会では、昨年から聖書の翻訳を新共同訳から聖書協会共同訳へと切り替えました。その違いを体感された方も多いのではないでしょうか。なかでも大きな変更があったのが、ガラテヤ2:16の翻訳です。
新共同訳では「キリストへの信仰によって義とされる」と訳されていたこの箇所が、聖書協会共同訳では「キリストの真実によって義とされる」と訳されているのです。
この違いとても大きな違いです。
「信仰による義」という時、どうしても「わたしの信じ方」「どれだけ信じているか」が問われるように感じてしまいます。でも「キリストの真実によって義とされる」は、主体はキリストご自身なのです。
信仰とは、自分の心の強さではなく、キリストの忠実さに身を委ねること。神の恵みは、わたしたちの内側ではなく、神の側から来る――この福音に、改めて立ち戻るようにと、パウロは語っているのです。
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私の恩師のひとり、石塚惠司牧師は、あるときこう語られました。
「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる」(Ⅱテモテ2:13)
これは石塚先生が、長年ブラジルで宣教の働きに携わる中、幾度となく支えられた御言葉だったそうです。そして私自身もまた、信仰に揺れる時、疲れたとき、この聖句に慰めを受けてきました。
私たちの信仰が強くなったから救われるのではない。キリストが真実でいてくださるから、わたしたちはすでに義とされている。
なんという慰めでしょうか。
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現代社会では、信仰の場面だけでなく、日常の中でも「自分の力でなんとかしなければ」と思わされる場面が多くあります。頑張ることが正義であり、助けを求めることは「甘え」のように思われる。
でも、神の恵みの世界は違います。努力ではなく、愛によって成り立つ世界。条件ではなく、招きに応答する世界。
わたしたちは、「霊によって始まったのに、なぜ肉によって仕上げようとするのか」(ガラテヤ3:3)というパウロの問いに、今も心を揺さぶられます。
信仰とは、「キリストの真実」の上に人生を築くこと。
それは、活動や成果によって自分の価値を測る生き方から、「神に招かれて生かされている」という恵みの生き方へと転換することでもあるのです。
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最近、朝ドラ「あんぱん」を観ていたとき、「アンパンマン」の主題歌のこのフレーズが心に浮かびました。
「なんのために生まれて なにをして生きるのか」
人生の問いは、いつだってシンプルで、でも深い。
わたしたちは、何を信じて生きているのか? その問いの答えは一人ひとり違ってもいい。
でも、福音が語るのはこうです。
「キリストの真実によって、あなたはすでに神に義とされている」
だから、どんな時も「神の恵みを無にしない」。その言葉に立ち返りながら、今日を歩んでいきましょう。
※この文章は2025年5月11日に国立のぞみ教会の礼拝で語られた説教をもとに書いています。
説教の要約は⬇️
説教の動画⬇️

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