「その福音、誰から聞いたのか」
宣教開始から64年を迎えました。特別なセレモニーは何も用意していませんが、それでも大切な節目であることに変わりはありません。
そんな日に読まれたのが、「ガラテヤの信徒への手紙」の冒頭。かつてある牧師が、この手紙のことを「信仰者にとっての北極星」と呼びました。どんなに霧が濃くても、どの方向に進めばいいか、星を見上げればわかる。ガラテヤ書はそんなふうに、人生と信仰の航路を示してくれる手紙だというのです。
でもその出だしは、北極星のように静かではありません。パウロの怒りと、戸惑いと、悲しみがにじみ出ています。
「私は驚いています」と訳されるその一文。以前使っていた新共同訳では「あきれ果てている」。なぜなら、あれほど熱く語った福音が、もう曲げられてしまっていたから。
「キリストによってのみ救われる」――その福音が、再び「割礼」や「律法の実践」によって救いを得ようとする動きにすり替えられようとしていたのです。
これは、現代の私たちにもつながる話です。
人は、無条件の愛を語られると、どこかで戸惑うものです。嬉しいはずなのに、どこかモヤモヤする。
「え、そんな簡単でいいの?」「何もしていない人が、なぜ赦されるの?」
イエスが語られた「放蕩息子のたとえ」を思い出します。さんざん親の財産を食いつぶして帰ってきた弟を、父は無条件に迎え入れました。でも、それを見た兄は怒った。「なんであんな奴に、あんなに良くしてやるんだ」と。
この兄の感情、私たちもどこかに抱えていないでしょうか。
「頑張ってきた自分」と、「自由にやってきたあの人」を比べて、なんだか釈然としない。
でも――福音はそこにこそ宿るのです。
かつてパウロも、「正しさ」を追い求めて生きていました。神に従っているつもりだった。でも、ダマスコ途上で復活のキリストに出会ったとき、自分が歩んでいた道が、実は「神を迫害する道」だったと知るのです。
それは、信仰の前提が崩れる出来事でした。
でも、そこでパウロは気づきます。自分の熱心さや努力ではなく、ただ「キリストによって救われている」という事実に。
福音とは、「正しくあれば救われる」ではなく、「正しくなくても、神とすでに和解している」ことを知ること。
それが、信仰の出発点なのだと。
私たちも、日々の中で「こうあるべき」という思いに縛られがちです。クリスチャンとして、牧師として、親として、教師として、社会人として……。
でも、その「べき」は、知らず知らずのうちに人を裁き、自分をも苦しめます。
「自分はダメなクリスチャンだ」なんて言葉が、口から出てしまう。
それは、福音が歪められている証かもしれません。
福音は、そうした重荷から私たちを解き放ちます。
「あなたは、すでに神と和解している」
その確かな恵みに立ち返るとき、私たちは本当の意味で自由になれるのです。
64年前、この地に宣教の種がまかれました。そして、いま私たちはここに立っています。
あなたは、その福音を誰から聞きましたか?
牧師からだったかもしれない。家族からだったかもしれない。あるいは、苦しみの中で誰かの祈りやまなざしを通して。
けれど本当は――キリストご自身が、あなたに語ってくださったのです。
その福音の恵みを、どうか歪めることなく、今日もまっすぐに生きていきましょう。
※この文章は2025年5月4日国立のぞみ教会の礼拝で語られた説教を元にして書かれています。
説教の要約はこちら⬇️
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