華やかなイースターの祝祭が終わり、日常が戻ってきます。 祭りのあとの静けさの中で、ふと自分自身の内側に目を向けると、そこには依然として晴れない不安や、人には言えない後悔が居座っていることに気づくかもしれません。
聖書が記す「最初のイースター」の夕暮れも、決して手放しの喜びに満ちたものではありませんでした。
弟子たちは、自分たちがいる家の戸に、すべて鍵をかけて閉じこもっていました。彼らを支配していたのは、圧倒的な「恐れ」です。自分たちが従ってきた師が処刑され、次は自分たちの番かもしれない。その恐怖を前にして、彼らができることは、世界から自分を遮断し、ひきこもることだけでした。
心の鍵をかけるということ
「鍵をかける」という行為は、誰の心にも覚えがあるのではないでしょうか。 傷つくのが怖くて、あるいは自分の失敗を直視できなくて、心の扉を固く閉ざし、誰の侵入も許さないように息を潜める。そんな暗い部屋の真ん中に、復活したイエスは前触れもなく現れました。
イエスが最初にかけた言葉は、責め苦でも追求でもなく、ただ一言。
「あなたがたに平和があるように」
そしてイエスは、自分の手と脇腹に残る「傷跡」を弟子たちに見せました。 私は、ここに復活という出来事の真実があると感じます。死に打ち勝って復活したのなら、体は傷一つない輝かしい姿に生まれ変わっていてもよかったはずです。しかし、主の体には、残酷な十字架の痛みの記憶が刻まれたままでした。
それは、私たちの過去が「なかったこと」にはならないことを示しています。 裏切りも、失敗も、取り返しのつかない後悔も、消えてなくなるわけではない。けれど、主はその傷を抱えたまま、弟子たちの前に立たれました。
復活の命とは、傷を隠すことではなく、その傷を抱えたままで新しく生きていける、という希望のことなのです。
この物語には、もう一人、忘れがたい人物が登場します。「疑い深い」と言われるトマスです。 彼は仲間の証言を信じられず、葛藤の中にいました。しかし、一週間後に再び現れた主の傷跡に触れたとき、彼は誰よりも深い信仰の言葉を口にします。
双子の片割れとして
トマスには「ディディモ(双子)」というあだ名がありました。けれど、聖書のどこを探しても、もう一人の双子の名は記されていません。
その名もなき片割れとは、今この時代を生きる「私たち」のことではないでしょうか。
直接その姿を見ることはできなくても、目に見えない不安に揺れ、時に疑いながらも、誰かの言葉を頼りに歩き続けようとする私たち。そんな私たちの真ん中にも、主は今、立ってくださっています。
毎週の礼拝は、いわば「小さなイースター」です。 私たちはそれぞれ、一週間で負った傷や、固く閉ざした心の鍵を抱えたまま集まります。けれど、そこで語られる言葉や、隣に座る仲間の存在を通して、私たちは新しい命の息吹を受け取ります。
「見ないで信じる人は、幸いである」
その言葉を杖にして、私たちは再び、鍵をかけていた部屋から一歩外へと踏み出します。傷跡が消えることはなくても、その痛みを分かち合い、誰かと繋がって生きていく。その健やかな歩みの中にこそ、復活の主は共にいてくださるのです。
※この文章は2026年4月12日に国立のぞみ教会で語られた説教をもとにしています。
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