4月13日(日)の夜、教会で中高生会が行われた。
集まったのはこの春中学1年生になった5人を含め、15名の中高生たちだ。
礼拝堂で礼拝をし、礼拝後には聖書研究をし、食事をし、
近況報告をし、ゲームをして過ごす。

このうちの多くは、幼稚園のころから教会に通っている子どもたちである。
まだ小さな手を引いて親と一緒に来ていた姿を思い出すと、
こうして成長した姿を見守り続けることができるのは、
牧師としての働きの中でも、ひときわ深い喜びである。
学年も性格もばらばら。
部活も生活リズムもまちまち。
それでも、月に一度、こうして教会に集まり、
礼拝し、食べ、遊び、語るという“共通の時間”を持ち続けている。
以前、ある子が言った。
「学校ではあまり話さないけど、教会だとよく話す。不思議だよね」
派手な何かをするわけではない。
けれどそこには、ゆるやかなつながりがある。
一つひとつは細い糸かもしれない。
彼らは主日礼拝にはつながらない。
けれど私は願っている。
この細い糸が、主にあって強い糸となりますようにと。
信仰は押しつけるものではない。
でも、忘れられない祈りの風景は、
いつか人生のどこかで、ふいに灯りをともしてくれることがある。
笑って、食べて、ゲームをして、ふと祈る。
たいしたことをしていないように見える、その時間こそ、
主がとどまってくださっている時間であると、私は信じている。
結ばれていることは、目には見えにくい。
けれど、結ばれていると信じて、待ち続けることならできる。
この教会が、彼らにとって、
“ただいま”と言える場所であり続けるように。
そして、彼らが再び訪れるときには、
変わらぬ祈りとまなざしで迎えられるように。
それが、いま私に託されている幸いであり、祈りである。
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