主が十字架につけられたとき、真昼であるにもかかわらず、全地は深い暗闇に覆われたと聖書は記しています。それは日食のような自然現象ではありません。人間の罪と暴力性が、この世から光を奪い去った絶望の情景です。その静寂を切り裂くように、主イエスの絶叫が響き渡りました。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
それは理知的な祈りなどではなく、内臓の底から絞り出された、剥き出しの悲鳴でした。最も古い福音書であるマルコは、弟子に裏切られ、人々に侮辱され、ついに神にさえ見捨てられたと感じる主の、凄絶なまでの孤独をありのままに描き出しています。
神はなぜ「衣を裂いた」のか
主が息を引き取られた瞬間、神殿の聖所を隔てていた厚い垂れ幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。
一般にこれは「神と人間の隔てがなくなった」印とされますが、ここにはもっと震えるような神の感情が込められているのではないでしょうか。聖書の伝統において「衣を裂く」ことは、耐えがたい悲しみや激しい憤り、そして深い悔い改めの仕草です。
このとき、神様ご自身が、ご自分の上着を引き裂かれたのではないか。
かつて洗礼の時に「これはわたしの愛する子」と呼び、慈しんできた独り子が、人間の身勝手な暴力によってなぶり殺しにされていく。その壮絶な最期を目の当たりにして、天の父なる神の胸は、張り裂けんばかりの悲しみに満たされたに違いありません。
神様は、遠い天の上から冷ややかにこの光景を眺めていたのではありません。愛する子を失う親として、声をあげて泣き、身を切られるような痛みを共に分かち合っておられた。垂れ幕が裂けたのは、神の「叫び」そのものだったのではないかと私は思うのです。
共に絶望の淵に立つ神
この「神の痛み」こそが、不条理な世を生きる私たちの救いとなります。
かつて沖縄戦が激化する中中で、ガマの暗闇で、出口もなく見捨てられて亡くなっていった人々の叫び。あるいは現代の片隅で、誰にも届かない涙を流し、「なぜ私だけが」と問い続ける人々の魂のうめき。それらはすべて、十字架の上の主イエスの叫びと、そして神様の引き裂かれた胸の痛みと深く共鳴しています。
神様は、私たちの苦しみを「外側」から救うだけの方ではありません。自らも胸を引き裂き、私たちの絶望のどん底まで降りてきて、共に苦しみ、共に泣いてくださる方なのです。
絶望から希望の朝へ
神様が自ら衣を裂くほどの悲しみに沈まれたのは、私たちが二度と「孤独な絶望」に置き去りにされないためでした。神の痛みに触れるとき、私たちは自らの罪深さに気づかされると同時に、それをも包み込む圧倒的な愛に出会います。
この世界には今も、暴力や不正義、理不尽な苦しみが溢れています。そのたびに、神様は今も胸を引き裂いておられることでしょう。
しかし、愛を貫き通し、死の闇に呑み込まれた主イエスを、神様はそのままにはされませんでした。この引き裂かれた絶望の先に、あの輝かしいイースター(復活)の朝が約束されています。私たちはその希望を胸に、今日という苦難の時代を、神様と共に歩み始めたいと願います。
※この文章は2026年3月29日国立のぞみ教会の主日礼拝で語られた説教をもとにしています。
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