あけましておめでとうございます。主の年2026年が始まりました。
皆さんはどのような年明けを迎えられたでしょうか。 私はというと、実は少しほろ苦いスタートとなりました。元旦の朝、多摩川まで初日の出を見に走る計画を立てていたのですが、年末に教会の仲間たちとサイクリングに出かけた際、不運にも落車事故を起こしてしまったのです。
左肩と腰を痛め、走るどころか、静かに祈りつつ牧師室で新しい朝を迎えることになりました。
子どもの頃、元旦の0時を過ぎると世界が真っ白な新しいノートのように一新されるような、あのワクワクする感覚がありました。しかし、大人になるにつれ、そんな新鮮な感覚も少しずつ薄れてきたように感じます。
時計の針が0時を回ったからといって、私の肩や腰の痛みがリセットされるわけではありません。肉体的な痛みだけでなく、心の中にある不安や、解決しないまま持ち越した課題も、重くのしかかったまま新しい年が始まります。
そんな「リセットされない現実」の中にいる私たちに、聖書はこう語りかけます。 「見よ、わたしは万物を新しくする。」(ヨハネの黙示録21章5節)
この言葉は、単なる気休めのスローガンではありません。 天の御座におられる方は、「新しくした(過去形)」でも「新しくするだろう(未来形)」でもなく、いま、この瞬間も「新しくしている(現在進行形)」と宣言されています。
まるで、冬の寒さの中で、目には見えなくても土の下で春の準備が着実に進んでいるように。あるいは、暗闇を突き破って太陽が昇ってくるように。神さまの創造の業は、私たちの痛みのただ中で、すでに始まっているのです。
主は、この希望を「書き記せ」と命じられました。 それは、私たちが日常の忙しさや困難の中で、この約束をすぐに「忘れてしまう」からです。礼拝を終え、一歩教会の外に出れば、また昨日の続きのような、何も変わらない現実が待っているように見えるかもしれません。
それでも、私たちは今日という日を、ただ「昨日の続き」として生きる必要はありません。 私たちの痛みも、後悔も、そして世界が抱える混迷さえも、神さまの手の中で新しく作り替えられている最中なのだという信頼。その「現在進行形」の希望こそが、私たちが今日から歩み出す勇気の源になります。
たとえ体に痛みを抱え、心に不安を残したままであっても。 「見よ、わたしは万物を新しくする」という主の声に耳を澄ませ、2026年という新しい歩みを始めていきたいと願っています。
今年も、皆さんの歩みの上に、主の豊かな新しさが注がれますように。
※この文章は2026年1月1日の新年礼拝の説教を元にしています。
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