私の年末年始は、正直に言えば「痛みの伴うスタート」だった。
サイクリング中の落車事故で、左肩から腰にかけて傷を負い、何をするにも「イタタタ」と声が出る。新しい年を迎えたからといって、去年の痛みが帳消しになるわけではない。人生も同じだ。年が改まっても、私たちは相変わらず喜びと悲しみ、不安と希望の波の中を生きていく。

だからこそ、私たちは日曜日の朝、あえて日常を「切り分け」て礼拝に集う。礼拝とは、忙しさの合間に差し込む余白であり、揺れ続ける人生に「軸」を据える行為なのだ。やじろべえのように不安定な私たちの歩みを、そっと支える支点。それが礼拝であり、「はじめ」の時間である。

新しい年の最初に、私たちに与えられた言葉は、マルコによる福音書の冒頭の一文だった。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」。

ギリシア語では「初め(アルケー)」という言葉が文頭に置かれている。これは単なる時間の始まりではない。「さあ、ここから始まる」という力強い呼びかけだ。当時、「福音」という言葉はローマ皇帝の勝利や即位を告げる政治的な言葉だった。しかしマルコは、その言葉を大胆に奪い返し、宣言する。本当の福音は、力で人を従わせる皇帝ではない。十字架を背負って歩む、神の子イエス・キリストその人なのだ、と。

この宣言は、私たちの人生における「支配者の交代」を意味している。
2026年も、不安や痛み、思い通りにならない現実は消えないだろう。それでも、その舞台の中心に立っているのは、不安でも恐れでもない。飼い葉桶に生まれ、十字架へと向かわれたキリストである。

だから私は、この年の始まりを信じたい。
痛みの只中にあっても、「喜びの知らせ」はすでに始まっているのだと。

この文章は国立のぞみ教会の1月4日の主日礼拝の説教を元にしています。

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