聖書の中に、12年間も出血が止まらない病を患った女性が登場します。

彼女の苦しみは、肉体的な痛みだけではありませんでした。当時の社会では、その病は「汚れたもの」と見なされ、人との接触が禁じられていました。全財産を治療に使い果たし、心身ともにボロボロになり、社会からも隔離される。若い女性であったなら、結婚や家庭という未来の希望さえも断たれていたことでしょう。

誰にも触れることができず、誰にも助けを求められない。そんな12年間の孤独を、私たちは想像できるでしょうか。

絶望の淵で伸ばした「手」

「もう、何をしても無駄だ」と諦めてしまってもおかしくない状況の中で、彼女は主イエスの噂を耳にします。そして、震える手でこう思いました。

「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける。」

彼女は「汚れた身で人に触れてはいけない」というタブーを冒し、群衆に紛れ込んで必死にイエスの服の端に触れました。その瞬間、長年彼女を苦しめていた出血が止まったのです。

しかし、物語はここでは終わりません。本当の救いは、ここから始まったのです。

「隅っこ」から呼び出される恵み

主イエスは、大勢の人に揉まれながらも、確かな信仰をもって自分に触れた存在を見逃しませんでした。不安に震える彼女を呼び止め、すべてを語るように促されました。

彼女は、12年間にわたる恨み、絶望、そして一縷の望みをかけて伸ばした手のことを、ありのまま主の前に注ぎ出しました。それを聞いた主は、彼女にこう呼びかけます。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

主イエスは、彼女を「汚れた病人」としてではなく、親愛なる家族を呼ぶように「娘よ」と呼びかけました。この一言こそが、彼女が失っていた「人間らしさ」を取り戻し、家族や社会との絆を結び直す、真の救いの宣言でした。

「達者でいなさい」というエール

主は最後に「達者でいなさい」と言われました。この言葉は、単に「健康で」という意味だけでなく、「あなたの全存在が健やかであるように」という深い祝福の祈りです。

私たちの人生にも、病や挫折、孤独といった厳しい冬の時代が訪れることがあります。しかし、主イエスは私たちの小さな、叫びのような祈りの手に必ず気づいてくださいます。

「あなたはわたしの娘、息子だ。安心して行きなさい」

毎週の礼拝は、この主のエールを受け取る場所です。私たちは一人ではありません。主の「達者でいなさい」という励ましを胸に、私たちはまたそれぞれの日常へと、力強く送り出されていくのです。

※この文章は2026年2月1日国立のぞみ教会の礼拝で語られた説教をもとにしています。

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