先日、高校時代のクラス会に出かけました。私の母校は伝統ある野球の強豪校で、当時は「不適切にもほどがある」と言いたくなるような、理不尽なほど厳しい上下関係がありました。挨拶の角度から電車の乗車位置まで、代々伝わる「独自ルール」に縛られ、一年生は思考停止状態でそれに従うしかありませんでした。それを破れば厳しい制裁が待っており、私たちは「伝統を守る」という正義感の名のもとに、その窮屈な世界を維持していたのです。

こうした「古くからの言い伝え」や「ルール」は、時として神という権威と結びついたとき、さらに強固で逃れられない力を持ってしまいます。

伝統という名の「不適切な」縛り

聖書の中にも、これとよく似た「ルール」を巡る対立の場面があります。ある時、宗教の専門家たちが主イエスの弟子たちを見て憤りました。弟子たちが食事の前に手を洗わなかったからです。当時の手洗いは単なる衛生習慣ではなく、宗教的な「けがれ」を清めるための極めて重要な儀式だったのです。彼らは「なぜ伝統を守らないのか」とイエスを激しく追及しました。

これに対し、イエス様は彼らを「舞台俳優(偽善者)」のようだと喝破されました。口先では神様を敬っているように見えても、その心は神様から遠く離れている。人間の作った細かいルールを固守するあまり、神様が本当に大切にされている「心」を置き去りにしている、と指摘されたのです。

愛を置き去りにする「正しさ」の罠

その一例として挙げられたのが「コルバン」という習慣でした。「これは神様への捧げ物です」と宣言しさえすれば、本来は最も身近な隣人であるはずの両親を養う義務さえ免れることができるという、巧妙なルールの「抜け道」です。一見すると信心深く見える行為の裏で、神様が十戒で定められた「父と母を敬え」という根本的な愛の戒めが、人間勝手なルールによって無効にされていたのです。

こうした「〜せねばならない」「〜すべき」という、いわゆる「ねばべき」主義は、私たちの日常にも溢れています。最近話題になっていた「料理のねばべき展」では、「一汁三菜作らねば」「出汁は一から取るべき」といった無意識のルールが、いかに人を窮屈にさせているかが語られていました。

もっともシンプルな「愛」に立ち返る

「最も宗教的であるものが、最も神に遠い」という言葉があります。自分の正義感やルールに固執するあまり、目の前の一人を生かし、愛することを忘れてしまう。それは、信仰という名の皮を被った、本末転倒な姿かもしれません。

神様が私たちに求めておられるのは、形式的な宗教的行為の遵守そのものではなく、「神を愛し、隣人を愛する」という、とてもシンプルで温かな関係性です。

もし今、あなたが自分や誰かを裁く「ねばべき」の物差しに縛られて息苦しさを感じているなら、一度その物差しを脇に置いて、深く息を吸ってみてください。私たちが大事にしているそのルールは、誰かを生かしているでしょうか。それとも、誰かを、あるいはあなた自身を縛り付けてはいないでしょうか。

主イエスが示されたのは、ルールで人を縛ることではなく、神様の憐れみの中に生きる自由です。今週は、自分を縛り付けている「ねばべき」から少し自由になって、神様と隣人を愛するシンプルな喜びに立ち返る歩みをしたいものですね。

※この文章は2026年2月8日に国立のぞみ教会の礼拝で語られた説教をもとにしています。

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