主イエスはこれからエルサレムに向かい、苦しみを受けて死に、そして復活するという、極めて重大な「受難の予告」を弟子たちに伝えます。ところが、その直後に弟子たちが言い出したのは、実に対照的な「出世の願い」でした。
「偉くなりたい」という本音
ヤコブとヨハネの兄弟は、主イエスにこう願います。 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人は右に、一人は左に座らせてください」
つまり、「政権を握ったら、自分たちを特権的なポストに就けてほしい」という露骨な野心です。ガリラヤの漁師だった彼らにとって、メシア(救い主)であるイエス様に従うことは、一発逆転で支配階級へと成り上がる「千載一遇のチャンス」に見えたのかもしれません。
これを聞いた他の10人の弟子たちが腹を立てたのも、彼らの中に同じような「人より上に行きたい」「自分こそが評価されたい」という上昇志向やライバル意識があったからに他なりません。
この「ピラミッドの頂点」を目指す論理は、2000年前の弟子たちだけでなく、現代の競争社会に生きる私たちの心にも深く根ざしているものではないでしょうか。
神の国の「逆転の論理」
世俗の価値観では、偉い人とは「人々を従え、権力を振るう者」を指します。しかし、主イエスはそのピラミッドを根底からひっくり返す、神の国の憲法を打ち出されました。
「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
しかし、いざ「仕える」ことを実践しようとすると、私たちはすぐに自分の愛の限界に突き当たります。 介護や育児、あるいは日々の人間関係の中で、献身的に振る舞おうとしても、ついイライラしてしまったり、忍耐が続かなかったり……。結局、理想通りにできない自分を責め、自己嫌悪に陥ってしまうことも少なくありません。
私たちは、相変わらず「有能さ」や「正しさ」で自分を測り、右往左往してしまう、情けない存在なのです。
私たちのために支払われた「身代金」
まさに、そのような私たちのために、主イエスはこう言われました。
「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
「身代金」とは、捕虜や借金を抱えた人を買い戻すための代価のことです。主イエスが命をかけて買い取られたのは、立派に仕えることのできる有能な人たちではありません。 自分の野心さえ分かっていない「頓珍漢な弟子たち」であり、そして、愛の限界を知らされ、後悔ばかりしている「この私」なのです。
主イエスこそが、私たちの命をまるごと引き受けてくださるために、ご自分を最も低くして仕えてくださいました。
軽やかな一歩を、ここから
主がすでに私たちのために「代価」を支払ってくださったのだから、私たちはもう、自分の有能さや「正しく仕えられたかどうか」で自分をジャッジする必要はありません。 失敗しても、的外れなままでもいい。大事なのは、主が指し示してくださった「神の国の方向」を、今ここで新しく志すかどうかです。
物語はこの後、盲人バルティマイの癒しへと続きます。地位を求めた弟子たちに対し、彼はただ「私を憐れんでください」と叫びました。
私たちも自らの弱さを抱えたまま、この主の憐れみにすがりましょう。主の愛に生かされ、今日ここから、隣人に仕える「自由な僕(しもべ)」として、軽やかな一歩を踏み出していきたいものです。
※この記事は2026年3月1日の主日礼拝の説教をもとに書かれています。
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