私たちは、あまりに物分かりよく「イースター」を受け入れすぎてはいないでしょうか。

春の光が差し込むカレンダーに「イースター」の文字を見つけるとき、私たちの心はどこか予定調和な安らぎに浸っています。苦難の季節が終わり、当然のように喜びの朝が来る。その華やかなムードの中で、私たちは「死が生に変わる」という出来事の、本当の凄まじさを見失っているのかもしれません。

聖書が記す最初のイースターは、決してそんな穏やかなものではありませんでした。

日曜日の早朝、三人の女性たちが墓へ向かいます。彼女たちの胸にあったのは、希望ではなく、やり場のない喪失感と「一つの懸念」でした。 「だれが墓の入り口から、あの大きな石を転がしてくれるでしょうか」

彼女たちが心配していたのは、自分たちの力では到底動かすことのできない、重く冷たい現実の象徴でした。死という絶対的な断絶。取り返しのつかない過去。それを封じ込める巨大な石。私たちもまた、日常の中で同じような「石」の前に立ち尽くすことがあります。自分の力ではどうにもできない問題、あるいは「もう終わってしまった」と諦めた関係。その前で途方に暮れるのが、私たちの本当の姿です。

ところが、彼女たちが「目を上げた」とき、石はすでに転がされていました。

この「目を上げる」という言葉が、私は好きです。自分の足元ばかりを見て、重い石に絶望していた視線が、ふと外側へ、あるいは上へと向けられる。そのとき、人間の算段をはるかに超えた神のわざが、実は「すでに」始まっていたことに気づかされるのです。

墓の中にいた若者は、震える彼女たちにこう告げました。「弟子たちとペトロに告げなさい」と。 あえて「ペトロ」の名が呼ばれたことに、胸が熱くなります。かつて一番弟子でありながら、保身のために師を三度も「知らない」と裏切った男。その名をあえて挙げることで、復活の主は、真っ先に彼を赦し、再び出会う約束を与えられました。過去の過ちを塗り替えるのではなく、その過ちごと抱きしめるような愛。それが、復活という出来事の体温なのだと思います。

物語は、女性たちが恐ろしさのあまり逃げ去り、誰にも何も言えなかったという場面で、唐突な余韻を残して終わります。 劇的な再会シーンはありません。ただ一つ、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」という言葉だけが残されました。

ガリラヤとは、彼らがかつて共に生活し、食事をし、失敗を繰り返してきた「日常の場」です。 復活の主は、特別な聖域に留まってはいません。私たちの騒がしい生活の中、仕事や家事、誰かとの何気ない会話が交わされる、その場所へと先回りして歩いておられるというのです。

私たちが今、こうして誰かと繋がり、今日を生きていること。それ自体が、実は「すでに石が転がされた」世界を生きている証拠なのかもしれません。

世界には依然として分断があり、私たちの心を塞ぐような「墓石」はあちこちに転がっています。けれど、日曜日の朝に目を上げれば、そこには新しく拓かれた道が見えるはずです。 「あの方は、先に歩んでおられる」 その静かな確信とともに、私たちはそれぞれの日常へと、再び足を踏み出していくのです。

※この文章は2026年4月5日国立のぞみ教会で語られたイースター説教をものにしています。


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