新年が始まり、早くも一週間が過ぎた。 窓の外の穏やかな景色とは裏腹に、海を隔てた先では大国の武力行使が世界を不安に陥れている。

掲げられた大義名分がどうあれ、力によって他者の道理を塗り替えていくその様を眺めていると、世界がますます「力」という魔力に心を奪われていくようで、暗澹たる心地になる。

1月6日、教会では「公現日(エピファニー)」を迎えた。 東方の博士たちが星に導かれ、幼子イエスを見出した日。世界を照らすキリストの光を覚えるこの時期、私は改めて考え込んでしまう。私たちが崇める「光」とは、一体どのようなものなのだろうか、と。

あるBS番組で、再臨のキリストを待ち望む人々の姿を目にした。

彼らが描く主は、剣を携え、白馬に乗って敵をなぎ倒す勇壮な王だ。おそらく「ヨハネの黙示録」を根拠に、彼らはそのような再臨のキリストを描いているだろうが、洗礼を授ける者さえもがその手に剣を握っている光景に、私は思わず寒気を覚えた。同じ「キリスト教徒」として見られたくない。そんな思いにさえなった。

黙示録の解釈の課題でもあるが、私は主イエスの生涯を考えれば考えるほど、イエス様が、剣をもって白馬に乗って、人々を支配する王として再臨するとは思えない。福音書が伝える主イエスの歩みを辿れば辿るほど、力で人々を屈服させる王の姿が、どうしても重ならないのだ。

マタイによる福音書25章で、主イエスはたとえの中で「王」として告げられた。「 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』」(マタイ25:40)

いま、暴力の嵐の中で、あるいは声なき絶望の中で、文字通り「小さくされた人々」がいる。主はそこに、今すでにおられるのではないか。

「インマヌエル(神は我らと共に)」

主イエスはこれから先、どこかからやってくるお方ではなく、いますでに私たちと共ににおられる。これが私たちの信仰ではないのか? そしてその主は、もっとも小さな者の一人をご自分の兄弟としておられのではないのか?

新年早々、そんな思考がぐるぐると胸の中を巡っている。

主よ、私たちがいますべきことは何でしょうか? 
主よ、私たちはどうすればいいのでしょうか?
主よ、罪深い私たちを憐れんでください。

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