聖書の中に、思わず息を呑むような大胆な物語があります。 4人の男たちが、病で体の自由を失った友人を寝床ごと担ぎ、主イエスのいる家の「屋根を剥がして」吊り降ろしたという場面です。

粘土や藁がバラバラと落ちる音、埃の舞う光景、そして静まり返る群衆。 彼らがそこまでして友を運びたかったのは、主イエスの前こそが、あらゆる縛りから解放される唯一の場所だと信じていたからです。

心を縛る「麻痺」から解き放たれる

物語に登場する男は、身体が麻痺し、自分の力では一歩も動くことができませんでした。 当時の社会において、病は「罪の結果」と見なされることがありました。その理不尽な常識は、彼の身体だけでなく、心をも「自分は神に見捨てられた存在だ」という絶望で麻痺させていたかもしれません。

しかし、主イエスはこの男にこう告げられます。 「あなたの罪は赦された」

それは単なる病の治癒を超えた、魂の救いの宣言でした。 さらに主が「起きて歩みなさい」と命じられると、男は立ち上がります。ここで使われている「起きる」という言葉は、聖書では「復活」を意味する言葉と同じです。彼は、古い自分という「床」を担ぎ、新しい命へと歩み出したのです。

信仰とは「納得」ではなく「賭ける」こと

この物語で主イエスが「信仰」と呼ばれたのは、屋根を破ってまで友を運んできた4人の男たちのひたむきな姿でした。

信仰とは、すべてを十分に理解し、納得してから踏み出すことではありません。 「この方なら、何とかしてくださる」 そう信じて、のっぴきならない現実の中へ飛び込んでいく。常識や物分かりの良さを突き抜けて、イエスという方にすべてを賭ける。その必死なまでの姿勢こそが、信仰の本質なのだと教えられます。

教会は「互いに担ぎ合う」群れ

私たちは誰もが、人生の途上で心や魂が麻痺し、自分一人では祈ることさえできなくなる時があります。 そんな時、私たちの寝床の四隅を担ぎ、強引にでも主の前に運んでくれる誰かの存在が必要なのです。

教会では、これを「執り成し」と呼びます。 自力で歩けない者を、他者の信仰が支え、主のもとへと連れて行く。教会とは、そうして互いに担ぎ合い、共に「復活」の物語を生きる群れに他なりません。

2026年という新しい1年。 もし、あなたの周りに希望を失い、動けなくなっている友がいるなら、あるいは、あなた自身が麻痺を感じているなら、私たちは、屋根を破るほどの大胆な愛をもって、互いを主の前に運び続けたいと思います。そこには必ず、新しい命の始まりが待っているからです。

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この記事は2026年1月11日の礼拝において語られたものを元にしています。