一昨年だろうか、「不適切にもほどがある」という言葉が流行しました。コンプライアンスが重視される「令和」と、今では考えられないことが平然と行われていた「昭和」をタイムトラベルするドラマは、単なる懐古趣味を超え、規則に縛られすぎる現代の息苦しさの中で「本当に大切なことは何か」を鮮やかに問いかけました。
実は2000年前のパレスチナでも、同じように「不適切だ」と激しく糾弾される出来事が起きていました。安息日の規定を巡る、主イエスとファリサイ派の人々の対立です。
「自粛警察」のような正義のぶつかり合い
ある安息日、弟子たちが空腹のあまり麦の穂を摘んだことを、ファリサイ派の人々は「収穫という労働であり、不適切だ」と責め立てました。それはまるで、私たちがコロナ禍で経験した「自粛警察」のように、自分たちの正義から逸脱する者を許せないという、硬直した感情に近いものだったかもしれません。
しかし、主イエスは衝撃的な宣言をなさいました。 「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」
安息日は本来、人を縛り、監視し合うための日ではありません。家畜や労働者、弱い立場にある人々さえもが「一息つき、元気を回復する」ために神様が定められた、慈しみの日なのです。
「隅っこ」から「真ん中」へ
対立の舞台は会堂へと移ります。そこには、片手の萎えた人がいました。当時の社会で手が不自由であることは、労働力を失うだけでなく、宗教的な偏見にさらされ、礼拝の場でも「隅っこ」に追いやられることを意味していました。
主イエスは、訴える口実を探して沈黙する人々の中で、彼に向かってこう命じられました。 「真ん中に立ちなさい」
会堂の「真ん中」とは、聖書が朗読される最も神聖で注目を浴びる場所です。主は、規則よりも一人の人間の存在、その「命(プシケー)」が回復されることを、世界の真ん中に据えられたのです。
私たちの「萎えた手」を伸ばすために
私たちは人生の困難や試練の中で、心が縮こまり、自分に自信を失って、人生の「隅っこ」に座り込んでしまうことがあります。
しかし、主イエスが主権を持たれる安息日の礼拝こそ、私たちが再び「人間が人間となる」日です。神様が天地創造の終わりに「極めてよい」と宣言されたあの至福の安息へと、私たちは招かれています。
「真ん中に立ちなさい」
欠けの多い私たちが、キリストのゆえに赦され、価値ある存在として呼び戻される。安息日の主であるイエス・キリストは、今日、私たちの萎えた手を優しく伸ばし、真の安息へと導いてくださるのです。
※この文章は2026年1月18日に国立のぞみ教会で語られた説教をもとにしています。
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