説教の要約「かなめ石はキリスト」

2022年7月10日礼拝説教要約「かなめ石はキリスト」エフェソ2:11−22

7月8日(金)に安倍元首相が銃撃され亡くなるという衝撃的な事件が起こった。私たちの世界にいよいよ「敵意という隔ての壁」(14節)が高くそびえ立ってくるようだ。このような社会に生きるキリスト者である私たちに、御言葉は「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」と語りかける。

パウロがこの手紙を書き送ったエフェソの教会にはユダヤ人と異邦人の間に「敵意という隔ての壁」が現実としてあった。ユダヤ人が律法に従い、割礼を重んじ、安息日を遵守し、食物規定を守りながら生活する姿は、自由を謳歌するギリシャ・ローマ世界においては奇異に映ったし、親しまれるものではなかった。しかし、ユダヤ人からすれば、神の律法を知らない異邦人は、神から遠い、滅びの民であり、汚れた民として侮辱する対象でさえあった。

このユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つの教会に集められた。この中でパウロは「二つのものを一つ」にするキリストの平和を説いた。キリストによって律法は廃棄され、私たちは、キリストの十字架によって、神との和解を与えられたのだ。そして、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、「一人の新しい人に造り上げられる」のである。「一人の新しい人」というは洗礼において「キリストを着ている者」であり、そこではもはやユダヤ人やギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、男も女もない。キリストの体とされ「一つ」とされているのである(ガラテヤ3:26以下参照)。このキリストを着て、新しい人として造られたものたちが、一つの霊で結ばれるのが「教会」なのだとパウロはエフェソの人々に書き送っているのだ。

2001年に神学校の研修でフィリピンを訪ね、山奥の教会で礼拝を捧げたときに、「自分の親を殺した日本人とは一緒に座って礼拝はできない」と一人の初老の男性に言われた。大変なショックを受けた。私の人生において、初めて戦争の傷を生で体験した瞬間だった。その時、フィリピン生まれのアメリカ人であるカビー先生は「過去を帳消しにはできない。しかし、いまここにアメリカ人、日本人、韓国人、フィリピン人がここにいる。それがキリストにあって出会わされている不思議な出来事を考えたい。私たちがどういう未来を思い描けるか? 今ここに世界の希望があるのだ」とスピーチされた。私たちはその男性に対して“ I am so sorry” と伝えるとその男性は愛餐のために用にされた小さな芋を私に手渡してくれた。その芋は私にとっては和解の福音を証するものであった。

私たちの信仰は歴史と切り離されてはいない。この世界に立ち現れる「敵意という隔ての壁」は、フィリピンで私たちが経験したように、キリスト者の前に立ちはだかるのだ。いまもそここに「敵意という隔ての壁」が私たちの間に、キリスト者の間にもある。それをどう乗り越えていくのか。それは私たち一人一人の課題であり、使命である。

“The Line”(沢知恵)という歌では、私たちの日々のそこここある境界線の正体は「わたし」だと歌う。だからラインを超えるのは簡単だと。キリストは実にしなやかにラインを越えていかれた方だ。そのキリストこそ、私たちをつなぎとめる「かなめ石」である。このキリストに従い、「二つのものを一つ」にするキリストの平和を証しする教会でありたい。

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