説教の要約「新しい人を身に着けて」

2022年7月24日礼拝説教要約「新しい人を身に着けて」エフェソ4:17−24
わたしは基本的にファッションに疎い者だが、人は何を着るかで心持ちが変わったり、振る舞いが変わるということはあるものだ。牧師用のシャツを着て町を歩くときなどは、特に姿勢なども気にして歩く。子どもでも晴れ着などを着せられると親から「ちゃんとしていなさい」と言われて動きが制限されることもある。
パウロは古い人を脱ぎ捨てて、「神にかたどって造られた新しい人を身に着ける」ことを強く勧めている。古い服を脱いで、新しい服を着なさいということだ。

「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)。人間は本来、神の似姿に造られたのだ。しかし、人は罪を犯し、神の命から離れてしまう。その姿、その有り様をパウロは「古い人」と呼ぶのだ。その古い人を脱ぎ捨てて、「神にかたどって造られた新しい人を身につけなさい」という。つまり、神にかたどって造られた新しい人を身に着けるとは、もう一度、新しく創造されることだ。新しく造られた人間になるということ。生きながらに「生まれ変わる」という意味だ(ルカ15章の「放蕩息子のたとえ」がまさにその物語だ)。

教会において「生まれ変わる」というのはキリストに出会い、キリストを信じ、「洗礼」を受けるということだ。洗礼を受けるというは、古い自分に死に、新しい命に生き始めることに他ならない。パウロは「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ3:27)と記している。洗礼を受けた私たちは「キリストを着ている」者なのだ。あの放蕩息子の父親が帰郷した息子に「いちばん良い服」を着せてくれたように、神様はわたしたちにキリストを着せてくださったのだ! 「神にかたどって造られた新しい人」とは、神様の御心を映し出すまことの人のことだ。つまり、それはイエス・キリストにほかならない。「神にかたどって造られた新しい人を身に着ける」とはキリストを身に着けることに他ならない。

着るもので私たちの行動が変わるとするなら、「キリストを着る」者の生き方は変わるとパウロは続ける。キリストを身に着けた者は「真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければならない」とパウロはいう。「清い生活」など言われるとわたしたちは下を向くしかできないように思う。一体これはどういう生活のことなのか? 25節以下には具体的に、隣人に真実を語ることや日が暮れるまで怒っていけないなど「新しい生き方」が提示されている。エフェソの教会の現実的な課題がここにあったのだろう。その上でパウロは「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(5:2-3)と命じる。「清い生活」とは、キリストの愛に応えて、愛によって生きることに他ならない。

わたしたちにとってイエス様は、主であり、「真理」である。キリスト者とはこの方に従う者だ。もちろん失敗する。従いきれない弱さを抱えるのが私たちだ。しかし、「信仰とはキリストにおける志である」(植村正久)。キリストの愛に生きることを「志す」。神様がもっとも良い服を着せてくださったことへの応答に他ならない。

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