2026年1月25日にカンバーランド長老キリスト教会日本中会の「拡大合同委員会」が開催され、私が議長としてメッセージをした。以下はその時の原稿メモを少し整えたものである。

破綻寸前の日本中会

今回の合同委員会は、これまでにない流れである。Nさんによるプレゼンテーションを受け、その直後に議長として言葉を託されるという展開である。提示された日本中会の現実は厳しく、「さて、どうしたものか」と立ち止まらざるを得ない内容であった。

一つのネタとして、日本中会の現状が分析された資料をAIに読み込ませ、「日本中会の持続可能性」について分析を求めてみた。

AIの回答は、明快だった。

「現在の自給自足モデルを維持するという意味での持続可能性は、極めて低い。破綻寸前である」

人的リソースの枯渇、献金の不足、そして何より組織内に蔓延する「危機意識の乖離」 。どれも目新しい話ではないが、改めて突きつけられると重い。今のままの形を守ろうとするならば、もはや道はない。それがAIが導き出した結論であった 。

ここで大切なのは、「持続可能性」をどう定義するかである。いまの形をそのまま保つことを指すなら、残念ながら持続可能とは言い難い。しかし、危機は常に「危険」と「機会」の両面を持つ。ピンチはチャンス、という言葉を安易に使うつもりはないが、変化を引き受ける覚悟が問われているのは確かである。

存続という呪縛を超えて

では、どう変わるのか。提言されたように戦略としての「賢いダウンサイジング」は必要だろう 。だが、技術的な議論の前に、私たちが等身大で向き合わねばならない問いがある。 それは「教会をどう維持させるか」ではなく「何を持続させたいか」であり、「どう残すのか」ではなく「何を残すのか」という問いだ 。

私は、かつて香港中会で活躍され、コロナ禍で天に召されたウィリアム・ヤン先生の言葉を思い起こしている。

「教会が問わなければならないのは、『いかに存続するか』ではなく、『なぜ存在するのか』である」

「なぜ存在するのか」——。それは教会の本質を問い、この社会において神の国の価値観をいかに実践するかを問うことだ 。主イエスの宣教の第一声、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というあの響きを、私たちはそれぞれの町でどう表現していくのか。それが教会の唯一の存在理由にほかならない

能力という名の暴力の中で

私が牧会する国立という町は、一見すれば穏やかで豊かな文教地区だ。しかしそこには、目に見えない「暴力」が吹き荒れている

ある冬の夜、教会の隣の公園で一人の青年に出会った。三浪が決まったばかりの彼は、有名私大の合格通知を持っていながら、東大・京大以外は認めないという親の期待に押し潰されていた 。 またある日、小学生が「人間は能力がなきゃ価値はないんだよ」と叫びながら走り抜けていくのを聞いた

100点を求められ、優秀であることを強要される「アカデミック・ハラスメント」の日常 。肩書を失えば自分の価値を見失ってしまう大人たち 。この「能力主義」という冷たい価値観にさらされている人々に、「あなたは神にあって、そのままで価値ある存在だ」と伝えること。神の国の価値観を、知識ではなく「味わい」として提供すること。そこに、教会の存在価値がある 。

昨年、AYGの青年たちの旅や、青年をめぐる働きに多くのエネルギーと資源を注いできたのも、組織維持のためではない。神の国の価値に触れ、人が変えられていく場にこそ、新しい風が吹くと信じているからである。イエス・キリストを信じて生きることは、古臭いどころか、本当に人間らしく、喜びに満ちた生き方なのだ。

小さなパンを差し出す勇気

聖書にある「五千人の給食」の物語で、弟子フィリポは冷静に状況を分析した。「200デナリオン分(多額の費用)のパンがあっても足りません」と 。 彼の分析は正しかった。現実を見抜く力は重要だ。しかし主イエスは、その「役に立たない」はずの少年の小さなパンと魚を取り、祝福して満ち溢れさせた

私たちにできることは、小さなものを使命のために差し出すことだけである。

合同、兼牧、あるいは閉鎖という現実も、これから避けて通れないかもしれない。しかし私たちは、死から命を生み出す神を信じている。「教会の死」とは、組織がなくなることではなく、使命を失うことである。使命を全うし、走り抜いた先には、必ず新しい命が備えられている。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。

この言葉に支えられながら、私たちはなお前に進んでいきたい。

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