説教の要約「裏切る者との食事」

2022年3月13日礼拝説教要約「裏切る者との食事」マルコ14:10-26

エジプトの奴隷から解放された出来事を記念する「過越の食事」はイスラエルの人々のとって特別な食事であり、もっとも親しい者たちの間で行われた。イエス様も愛する弟子たちと共にこの食事をするために都で食事の場所を用意しておられた(12節以下)。

しかし、この救いの喜びの食卓に激震が走った。「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」とイエス様が言われたからだ。弟子たちは心を痛めて代わる代わる「まさかわたしのことでは」と言い始めた。「お前だろ、裏切ろうとしている奴は!」と犯人探しが始まったのではない。弟子たちはみんな「まさかわたしのことでは」と不安になったのだ。ユダだけではなく、誰の心の中にも主に従い切れない不安や怖れ、疑いがあったということだ。

「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(21節)。主イエスのこの言葉には戸惑いを覚えるが、この「不幸だ」という言葉は原語では「ウーアイ」であり、呻きや嘆きを意味する。「あー、なぜだ。わたしを離れてあなたは生きることはできない。わたしを離れては生きることはできないのだ」。わたしは裏切る者をギリギリの所で招く主の言葉であると解したい。

その主の招きはパン裂きと杯によって示された新しい契約へと続く。「取りなさい。これはわたしの体である」、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。主イエスは「過越の食事」の儀式にまったく新しい意味を加えた。「これはわたしの体だ」。

幼い子どもを遺して地上での生涯を終えた一人の母親は子どもに宛てた手紙に「お母さんを、お母さん自身を、あなたがたにあげます」と記した。母親の強烈な愛を思う。「取りなさい。これはわたしの体である」と言われたその言葉に主イエスの弟子を深く思う愛が込められているのだと私は思う。
イエス様は、命と、神の赦しをこの食卓で宣言された。この愛の食卓にユダもいたのだ。奥田牧師は、「ユダよ、帰れ」という説教の中で、ユダが犯した最大の過ちは、イエスを直接的に裏切ったことも確かにそうだが、ユダは帰る場所を間違えたことだと指摘している。あとから後悔したユダは、祭司長たちのところへ戻った。しかし、ユダは「お前の問題だ」と突き返され、自らの手で命を断ってしまった。ユダが立ち返るべきところは、イエスの愛と赦しの場であった。

人間は本当にどうしようもない。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)とある通りだ。私たちは自らの正しさのゆえに人さえ殺す。私たちの正しさは必ず過ちを含んでいるのだ。だからこそ、戻る場所が必要なのだ。そうでなければ「お前の問題だ」と自ら罪の責任を追わなければいけない。キリストがすでに「取りなさい。これはわたしの体」と激しく愛を与えてくださった。その愛を信じて生きる。キリストの愛のゆえに、赦された罪人して、生きていく。そこにキリスト者の人生がある。そして、私たちも主の食卓に養われているものであることを深く自覚したい。次の聖餐は4月17日のイースター礼拝を予定している。わたしたちも裏切りを抱えているような者たちだ。しかし、その者たちを主は食卓に招き続けてくださっている。キリストの十字架の愛を深く受け止める中で、聖餐に与りたい!

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Posted by pastorkenta