説教の要約「委ねられた責任」

2022年2月6日礼拝説教要約「委ねられた責任」マルコ13:32-37

「目を覚ましていなさい」。イエス様はご自分の死が間近に迫っている中で、繰り返しそう語られた。しかもそれはその場に弟子たちだけではなく、「すべての人に言う」こととしてお語りになった。聖書を通して、私たちはいまこの主の言葉を聞くのだ。

私たちはイエス様と共に歩んだ弟子たちとは違う社会に生きている。しかし、主イエスが再び来られるのを待ちつつ生きるということは、歴史につらなる世界中の信仰の先達たちと共通しているところだ。主イエスが再び来られるまでの「時」をどのように生きるのかということが、どの時代のキリスト者にとっても共通の課題なのだ。

「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせて、門番には目を覚ましているようにと、言いつけて置くようなものだ」。イエス様は、弟子たちに主が再び来られるときまでの弟子たちの生き方は、家の主人が旅に出て、僕たちに留守番を託すようなものだと言われる。キリスト者の生活とは、主イエスが再びこの地に来られるまで、留守を守ることなのだ。イエス様は「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせた」と言われている。私たちに割り当てられた仕事とは何か? 

私たちは日常的にそれぞれの「仕事」を持っている。家の仕事があり、会社での仕事がある。子どものために時間を使ったり、家族のために仕える事も「仕事」だ。多種多様な私たちの仕事を主に委ねられたことして受け止め、誠実に、忠実に果たそうとすることは大切なことだ。

しかし、ここでイエス様が言われた仕事は原語では「彼の仕事」となっている。つまり、イエス様が弟子たちに、私たちに割り振られた仕事とは「イエス様がこれまでしてきた仕事」である。「責任を持たせる」は「権威」という意味を持っている。つまり、イエス様は十字架の死が近づく中で、弟子たちにご自分がこれまでなしてきた神の国を宣べ伝える働きを、福音宣教の働きを弟子たちに権威を与え、委ねると言われているのだ。もちろん私たちに日々与えられている固有の働きは大切なものだ。しかし、また同じに、イエス様はご自身の仕事を、私たちに割り振り、与えられているのだ。

ホラー漫画作家の楳図かずおさんが新作を発表したというニュースがあった。テーマは「人間退化」だという。進化ばかりが語られる中で、大事なものを壊している人間社会に対して「もうちょっと忘れてしまっていいいから戻ろうよ」と言いたいと語られた。子どもの頃、遊んでいて家から遠く離れすぎて、怖くなってもうお家に帰ろうという感覚だという。楳図さんの話を聞きながら、それはまさに「悔い改め」の呼びかけだと思った。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。主イエスの福音宣教の第一声だ。主イエスの働きはここから始まっている。私たちはいま神なしに生きる世界に対して、神に立ち返ること、神と共に生きることを主イエスから託されているのだ。それこそが留守を委ねられた者たちの務めであり、門番の役割なのだ。私たちは日々の仕事を果たしながら、その歩みが、神の国への一里塚になっていることを知りながら、主に委ねられた宣教の業に生きるのだ。

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