説教の要約「秘められた計画が明らかに」

2022年6月12日礼拝説教要約「秘められた計画が明らかに」コロサイ1:24−2:5

今日の箇所には小見出しにもあるように、パウロが自分の働きについて、なぜ投獄されるような目にあいながらも闘っているのか、その理由が記されている。「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです」(2:2)。先週のペンテコステ礼拝の後に、私たちは「これからの教会」について話す時間を持ったが、今日の御言葉は、教会の宣教の目的、方向を指し示しているように思う。

パウロはまず苦労しながら福音を宣べ伝えるのは「人々が心を励まされる」ためだという。この背景にはコロサイ教会が惑わされていた教えがあると考えられる。それは「偽りの謙遜」(2:18)だ。新改訳などでは「自己卑下」と訳されている。人間を「自己卑下」させる力が働いていたのだ。だから「天使礼拝」が必要だと説かれる。しかし、福音の知らせはそのようなことを告げるのではない。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(1:13−14)。

私たちが礼拝したから救われるとか、律法を守るから神に認められるという世界はキリストの十字架と復活の出来事によって終わったのだ。「人々の心を励ます」とは、「あなたは神の『良し』に置かれたのだ。あなたは『大丈夫』だ」という福音の宣言に他ならない。

この神の「良し」の宣言を受けた者たちが、「愛によって結ばれる」ためにまたパウロは労苦しているという。「人と人が愛によって結ばれるところ」が教会なのだ。もちろん教会は決して理想的な集団なのではない。教会もまた人の集まりであるがゆえに、破れがあり、つまずきがある。目に見える地上の教会は途上の教会に過ぎない。しかし、それでもなお教会は篠﨑教職志願者が祈祷会で語られたように「神の国の前味を味わうところ」としてこの地に神によって建てられているのだ。教会の交わりを通して、私たちは「愛によって結ばれる」体験を味わうのだ。わたし自身、幼い頃に教会につなげられたが、野球をしていたことで随分と離れている時間があった。にもかかわらず、教会に繋がり続けたのは、神様の憐れみに他ならないが、わたしが教会での出会いの中で「神の国の前味を味わった」からだ。教会でわたしは自分の存在を励まされ、そして神と人の愛に結ばれたのだ。

「人と人が愛によって結ばれる」ためには、「理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟る」こと抜きにはありえない。「悟る」とは「深く知る」ということだ。キリストを深く知ることが、「心を励まされる」ことであり、「愛によって結ばれる」関係へとわたしたちを開くのだ。このキリストこそ「神の秘められた計画」、「神の奥義」(新改訳)に他ならない。
「奥義」とは「最も重要な事柄」、「最も肝心な点」と辞書にある。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています」(3節)。パウロは、すべての人が、「キリストを深く知る」ために労苦し、闘っているのだ。それは、パウロ自身が、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」を味わったからに他ならない。神の秘められた計画であるキリストを私たちももっと深く知りたい。そしてキリストを知る喜びを証しし、伝える教会でありたい。

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