40年の荒野の旅を経て、イスラエルの民はついにモアブの平野にたどり着きました。ヨルダン川を挟んで、もう約束の地カナンは目と鼻の先です。けれど、その道のりは決して平坦ではありませんでした。民は何度もつまずき、指導者モーセでさえ「メリバの水」の出来事によって、約束の地に入ることを許されなかったのです。

その地で登場するのが、モアブの王バラクと、遠く600kmも離れたペトルの町から呼び寄せられた呪術師バラム。バラクは、イスラエルの進軍を武力で止めることはできないと悟り、「せめて呪いの言葉で彼らを弱らせよう」と企てました。けれど祭壇が築かれ、いけにえがささげられたとき、神がバラムの口に授けられたのは…呪いではなく、祝福の言葉でした。

「神が祝福された民を、人が呪うことはできない」

なんという逆転でしょう。呪うために呼ばれたはずの口が、祝福を語る器になってしまったのです。

この物語は、私たちの口から出る言葉について問いかけてきます。
いまの社会には、呪いのような言葉が溢れています。ヘイトスピーチやSNSでの中傷、選挙戦の中で飛び交う罵声…人々は不安や恐れから、他者を「敵」とし、言葉で突き放そうとします。私たちもまた、日常の中でつい口にしてしまうことがあるでしょう。怒りや苛立ち、傷つきからくる鋭い言葉。それが呪いの小石のように、相手の心に投げ込まれてしまうことがあります。

しかし、神の祝福を知る者は、バラムのように立たされます。
「主が祝福された者を呪うことはできない」と。

思い出すのは、主イエスの十字架です。あの出来事こそ、人間の呪いが極まった瞬間でした。「神に呪われた者」として木にかけられたイエス。しかしその十字架を、神は救いと祝福の中心にされました。呪いに対して、イエスは「父よ、彼らを赦してください」と祈られ、その祈りに父なる神は、復活という答えを与えられたのです。

十字架と復活は、神の祝福がすべての呪いを覆い尽くすことを示しています。だから私たちは、傷つきやすく、小さな存在であっても、キリストによって祝福を授けられ、その祝福を分かち合う器として用いられるのです。

パウロはこう語りました。
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません」(ローマ12:14)。

簡単なことではありません。赦せない相手、思い出すと怒りがこみ上げる出来事…そういう中でなお、祝福の言葉を選び取るのは、私たちの力ではなく、キリストの愛に根ざす招きです。世界は混沌に包まれ、呪い合う現実があっても、神はなお「よし」と言い、祝福を注がれる。その祝福に生きる者として、私たちも言葉を選びたいのです。

バラムの口を通して語られた祝福は、意図を超えて、時代を超えて残りました。
私たちもまた、神が口に授けてくださる祝福を、この週も携えて歩みたいと思います。恐れではなく、祝福によって生きる者として。

あなたの今週の言葉は、呪いでしょうか、それとも祝福でしょうか。
主が授けられた言葉を、誰に、どんな場面で告げることになるでしょうか。

※この記事は2025年7月27日国立のぞみ教会で語られた説教を元にかかれています。