説教の要約「イエスのお家騒動」マルコ3:31-35

先週の説教「イエスのお家騒動」マルコ3:31−35
 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(21節)。イエス様の評判が拡がるに連れて、様々な反応があったのだろう。家を出ていったイエスの噂がナザレ村にも届いたのだろう。

 イエスは「気が変になっている」。当時の社会では考えられない徴税人や罪人と一緒に食事をしたり、重い皮膚病の人に触れて癒やしたり、罪を赦すなどと言っている。普段は仲違いしているファリサイ派とヘロデ派が手を組んでイエス殺害では手を組もうとしている(3:6)。だから身内は心配して取り押さえにきた。イエスに対する心配もあったであろうし、自分たちに危害が及ぶという不安もあったかもしれない。

 でも、取り押さえに来た家族の者たちは「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(31節)。イエス様と家族の間にある微妙な距離を感じる。なぜマリアたちは家の中に入らなかったのだろう? 入りたくなったのではないか。なぜなら、イエスの周りを囲んでいた大勢の人はおそらく「罪人」(アウトカースト)でいっぱいだったからだ。

 家族が自分のことを呼びに来たことを聞いたイエス様は、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と答えられた。血縁を重んじるユダヤ社会では特に衝撃の走る言葉だ。これを聞いた家族の反応や人々の反応は一切記されていない。

 身内の人は、世間の評判を気にした。世間というのは、その社会の常識とか、普通と言われる社会の「枠組み」そのものだ。世間は、その枠組の外にいる人に「アウトカースト」(罪人)とレッテルを貼る。イエス様も「気が変になっている」と社会の枠組みからはみ出す一人として見られたのだ。

 しかし、忘れてはならないのは、このイエスこそが「これはわたしの愛する子、御心にかなう者」と天から御声をかけられた方であり、神の国の到来を告げ、神の御心を行う人そのお方だとマルコは告げているのだ。イエス様は小さく、狭く枠を作っているこの世にあって、「神の国」、神様の愛によって、すべての人が解放される「神の国」に生きる方だ。その方の招きに応え、新しい関係に生き始めた者がイエス様の周りに座っている人々であり、その人々がイエス様に「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたのである。自分たちの「価値観」に照らして「気が変になっている」と評価する者と、イエス様によって新しい生き方へ招かれた者たちがいる。その衝突がこのイエス様のおられた「家」を舞台に繰り広げられたのが今日の場面と言えるだろう。
マルコは読者に「開かれた問い」としてイエス様の言葉を投げかけているのだ。主イエスは「さあ、あなたも家の外に立っていないで、中に入れ」と私たちを招いているのだ。大事なことは、私たちの側にイエスを連れ戻すのではなく、私たちが主イエスの後に従うことなのだ。家の外に立つか、イエスの周り座るか。ここに決定的な 違いがあるのだ。

 イエス様の周りに座っていた人たちは、特別に何かをしていたわけではない。ただイエスの周りに座り、イエスの言葉を聞いていた人たちだ。その人たちを見て、イエス様は「ここに」自分の家族がいると宣言された。まさにイエス様の言葉を聞くかどうか。「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:9)と続く箇所で言われるように、神の御心を行う人とは、何よりも主イエスの言葉に聞こうとすることに他ならない。

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