説教の要約「祈りの路づくり」

2022年6月27日主日礼拝説教要約「祈りの路づくり」コロサイ4:2−6

「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(2節)。「ひたすら祈る」とはどういうことか? 24時間365日祈るということではない。そんなことは不可能だ。「ひたすら」とは、ギリシア語辞典によれば「固執する」「専心する」という意味だ。この言葉は「強い」とか「確固たる」という言葉から派生した言葉で、しばしば「不撓不屈の不動性を意味する」とあった。何があっても動じないということだ。つまり、パウロがここで「ひたすら祈れ」と勧めていることは、ただ長い時間祈ることではなく、困難にあっても、試練の中にあっても、どんな時にあっても、揺らぐことなく、祈り続けなさいということだ。

パウロがこのように手紙の最後で命じるのは、「ひたすら祈る」ことに困難を覚える状況がコロサイの人々にあったということだろう。困難の中で祈ることに難しさを覚える者たちが教会の中に、キリスト者たちにあったということだ。

祈るという行為は、人間の自然な営みとも言える。キリスト者でなくても人は祈る。「人間は祈る存在である」。しかし、また困難や試練の中で祈りの挫折を私たちは経験する。「祈っても無駄ではないか……」。幼い子どもでも、「明日の遠足が晴れますように」という素朴な祈りが挫折する経験を味わうことがある。コロナ禍において、子どもも大人もそのような祈りの苦い経験をしている。願いが聞かれないことがいつしか私たちの祈りを困難なものにするのだ。

しかし、祈りとは願うことだけではない。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。パウロはここで「祈り」と「願い」を別の言葉で言い表している。願うことはもちろん祈りの一部である。しかし、祈りのすべてではない。

では、「祈り」とは何か? 子どもたちに祈りについて語るときに「祈りは神様とお話すること」とよく言う。「祈りとは魂の呼吸である」とも聞いたことがある。私の友人は、「祈りとは心をまっすぐに神に向けること」と言った。いい表現だ。様々なことに私たちの心は引っ張られ、支配される。嬉しいこと、悲しいこと、時には誘惑もあるだろう。その中で「心をまっすぐに神に向ける」。そして、神様に心を向けて、神様が求めておられることを真摯に聞き取ろうとする魂の営みが祈りなのだ。祈りは、神を私の方へ振りかせる行為ではない。祈りは、私が神様の方へ向きを変えることに他ならない。

パウロは祈りについて勧めた後、祈りのリクエストも書き送っている。みなさんは「祈ってください」と祈りのリクエストを送ったことがあるだろうか? 意外と自分のことを祈りってほしいと依頼することが少ないのではないだろうか。本当に深いところの祈りは「密室の祈り」として捧げられるものだとは思う。しかし、共に祈ることもまた私たちの信仰生活の豊かな恵みであることを覚えたい。

祈りが困難になることがある。「ひたすら祈れない」ことがある。だからこそ、祈りの仲間とも共に、私たちは祈りの道づくりに励むのだ。そして、「ひたすら祈る」営みが、時代を貫いて、祈りの路として私たちのところに貫かれてきたのだ。

「お祈りしかできないのではなく、お祈りできることを感謝しています」。試練の中で発せられた信仰の友の証の言葉だ。「目を覚まして感謝を込めて、ひたすら祈りなさい」。

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