説教の要約「神の恵みをたたえるために」

2022年7月20日

2022年7月3日主日礼拝説教要約「神の恵みをたたえるために」エフェソ1:3-14

エフェソの人々に獄中から手紙を書き送ったパウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(3節)と手紙を書き出した。神はほめたたえられるべき方なのだ。そして私たちは神をほめたたえるのである(6節、12節、13節)。なぜか? 神さまが私たちを神の子としてくださったからだ。神さまは天地創造の前から、私たちを神の子として選んでくださったのだ。

さらに、神さまは、キリストにおいて、私たちの罪を赦し、贖ってくださった。罪の奴隷であったところから、キリストの十字架の血によって解放してくださった。私たちを恵みのゆえに、神の御前に、聖なる者、汚れのない者としてくださった。また、神様は私たちにすべてのものがキリストにおいて一つにされていくという神様の秘められた計画を私たちに知らせてくだり、キリストにおいて、御言葉を通して語りかけ、私たちに神の国を受け継ぐための保証としての、聖霊を与えてくださった! 神さまは「キリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福」で私たちを満たしてくださった。それゆえ、神は賛美されるべき方であり、私たちは神を賛美するのである。

私はここを読みながら「礼拝」について考えさせられた。コロナ禍になり集まって礼拝をすることができないという経験を通して、「礼拝とは何か」という本質的な問いに向き合わされた。私たちとって礼拝とは何であろうか? 〈私たちが礼拝をささげるために集まるのは、この世界に対してすでに神がなさったことを「ほめたたえる」ためであり、神が現在なさっておられることを「ほめたたえる」ためであり、そして、神が将来行うと約束されたことを「ほめたたえる」ためである〉(J・バークハート『礼拝とは何か』)。

プロテスタント教会は礼拝の中心を「御言葉の説教」に据えてきたところがある。しかし、ユダヤ・キリスト教の伝統における礼拝の核心は、神をほめたたえることだ。カンバーランド長老教会の礼拝指針も「キリスト教の礼拝の基調は、神への賛美である」としている。私たちは牧師の説教を聞くために礼拝に集うのではない。もちろん説教も礼拝の大切な一部である。しかし、私たちは、私たちを神の子として愛し、私たちを選び、罪を赦し、御国の世継ぎとしてくださった神の愛と、神の救いの御業と、神の恵みをほめたたえるために礼拝をささげるのだ。
神をほめたたえるのは、私たちの気分や感情に左右されることではない。私たちの人生の晴れの日も、土砂降りの雨の日も、喜びの日も、悲しみに日も、感謝をささげるときも、嘆き叫ぶときも、神は、つねに変わらず、わたしたちの神様であられる。その神をほめたたえる。神は主イエスを十字架の死から復活させられた。それこそ教会の礼拝の起源であり、どのような時も神を礼拝する源である。

「主を賛美するために民は創造された」(詩編102:19)。神を賛美することは、人間にとって極めて本質的なことなのだ。神を賛美することなし、神を礼拝することなし、人間は本当の意味で人間にはならないのだ。「礼拝するとは人間が人間になることである」(礼拝指針)。私たちの側には悲しみや不安さえある。神を信頼し切れない不信仰を抱えるような者でもある。にもかかわらず、神さまは私たちを今日、変わらぬ愛をもって私たちを招いてくださった。神の恵みをたたえるために。神の恵みをたたえよう!

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