説教の要約「すべてを完成させるきずな」

2022年6月19日主日礼拝説教要約「すべてを完成させるきずな」コロサイ3:5−17

日本中会の草創期から牧師として歩んでこられた生島先生が天に召され葬儀に参列した。葬儀に参列すると否応なく「あなたは、残された人生をどう生きるか」という問いの前に立たされる。牧師として、キリスト者として、ひとりの人間としてどう生きるのか?

今日の箇所は「キリスト者の生き方」についてパウロがコロサイの教会の人々に向けて書き記したものだ。パウロは「捨て去る」ことと「身に着ける」ものを具体的に記している。パウロは「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」。「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」と記す。

それに対して「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」とキリスト者が身に着けるべきものを並べて記す。

このパウロの具体的な指示の前に、私たちは自らの生き方を省みるならば小さくならざるを得ない。こうありたいと願ってもなかなかそのように生きられない自分を知るのである。だから、今日の御言葉を「こうしましょうね」という話として受け止めると「すみません。わたしには無理そうです」で終わってしまう。大事なことは、ただ戒めを律法的に聞くことではなく、そのように命じられる理由を知ることである。

聖書の命令は多くの場合、神の恵み行為が先にある。「だから」、神の恵みに応える者として神の律法に生きる生き方を選んでいくのだ。大切なことは、あなたが何者であるかを知ることだ。

“Who are you?”「あなたは誰ですか?」これはアメリカ合衆国長老教会の「みんなのカテキズム」の最初の問いである。あなたは何と答えるだろうか? カテキズムは「わたしは、神様の子どもです」と答える。さらに「神さまの子どもであるとはどういうことですか」と第2問が続き「わたしが、わたしを愛してくださる神さまのものだということです」との答えが提示される。これが私たちにとって大切なアイデンティティである。私たちは洗礼を授けられたとき、このアイデンティティを、わたしを愛してくださる神に属する者であることをはっきりと知らされたのである。

この神様の深い愛を知ることから、自分は一体何者であるのかを知るところから、私たちの生き方は変わってくるのだ。神の愛を知ることこそ、私たちを生かす力であり、神に従う原動力であり、愛なき私たちの愛の源となるのだ。「愛はすべてを完成させるきずなです」。「神の愛」がすべてを完成させるきずなということではないだろうか。

愛とは感情のことではない。愛とは愛するという決断的行為にほかならない。何より、神が、神の御心に従いえない私たちをまず愛する決断をしてくださったのである。それがキリストによってあますところなく私たちに示されたのである。だからキリストがすべてであり、キリストの言葉を私たちの内にいつも豊かに宿すように勧められているのだ。弱さを抱える私たちだが、キリストの愛を受けた者として、愛に生きる決断の内にここから遣わされていきたい。

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