説教の要約「よき力に守られて」

2022年9月4日主日礼拝説教要約「よき力に守られて」ダニエル3:13−18

バビロンの王ネブカドネツァルが建立した巨大な金の像を、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は拝まなかった。それを知った王は激怒し、「拝まないならば」と3人を燃え盛る炉に投げ込んだ。連れて行った屈強な者たちが、吹き出る火で焼け死ぬほどの炉だ。にもかかわらずこの三人は炎から守られ、髪も焼けず、無事であった。

神に信頼するものを、神は必ず救ってくださる! めでたし、めでたし。ダニエル書はハッピーエンドに終わる。あぁ、どのようなときもこのようになってくれればいいのにと思う。しかし、この聖書の物語を読む者たちは、必ずもこのようなハッピーエンドに終わらない世界を、現実を知らされるのだ。

最初にダニエル書を読んだ読者たちもそうだった。BC二世紀を生きていた最初の読者たちは、シリアの王、アンティオコス・エピファネスによって蹂躙される世界に生きていた。エルサレム神殿にはギリシャの神ゼウス像が設置され、ヤハウェなる神を礼拝することが禁じられる中で、多くの人が殉教していた。中には火で焼かれて殺されることもあったようだ。

ユダヤの人々が「信仰告白的事態」に直面するなかで、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人の物語は愛され、読まれたのだ。彼らの信仰を見習い、私たちもまっすぐに信仰に生きよう! 「神は必ず救ってくださる」。そのように励まされた人々がいただろう。また同時に、神は救ってくれないではないか……。なぜ神はあの3人のように、私たちを救ってくれないのか? そういう問いに悩む人もいたのではないか。

「そうでなくても」(18節)。神様は必ず救ってくださる。しかし、たとえそうでなくても、私たちがヤハウェ以外の神にひれ伏すことはない! それが彼らの信仰であった。ここに私は私たちの信仰のあり方を問われる思いがした。神への信仰とは、私たちになにかメリットが約束されているから神を信頼するとか、神に従う決断するということではない。私たちはしばしば神が願いを聞いてくれれば神として認めるが、そうではければ「神など」と不平を漏らす。自分たちの要求に答えてくれてこそ神であると思い込むのである。そしていつしか、私たちが神に仕え、従うのではなく、神が私たちに仕え、従っているかが重要になる。しかし、神は神なのである。彼らの信仰は私たちのそのことを告げている。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。主イエスはそのように叫ばれて十字架で命を奪われた。どこまでも神に従い、神の愛に生きた主イエスを神は救ってくれなかった……。そのような思いで過ごさなければならなかった絶望の「土曜日」が教会にはある。しかし、あの日曜日の朝を、キリストが蘇られたあの朝を私たちは知っているのだ。神は、必ず救ってくださる。神はたとえ理不尽な死を味わうような目にあっても、神に従い、神の愛に生きる死を決して虚しいものにはなさらない。神の愛は決して滅びない。それがキリストの復活の大切なメッセージだ。

私は勇ましく、「殉教の覚悟があります」などと言えない。ネブカドネツァル的な脅しにすぐに折れてしまうのではないかと思う。でも、大事なことは殉教するほどの信仰があるかどうかではない。そのような社会にならないように、主に従って今日を生きることである。国葬なるものが行われるような中で、私たちの内面を支配しようとする動きは常にある。そのことに敏感にあらなければならない。主を告白する者として一週間を始めよう!

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